会長からのメッセージ

「宗教」から真行へ

本格的な春を迎え、世の中はコロナ一色という局面から脱し、新たな動きを見せ始めております。私が年頭にお伝えしました「癸卯(みずのとう)は物事の決着、ケリがつく年」であることが、早くも実感される状況となりました。

今月は横浜本部の金剛山成就院において春季理趣三昧供養が厳修されます。この理趣三昧供養は、弘法大師空海が密教の根本経典と定めた『般若理趣経(はんにゃりしゅきょう)』のもと、真言密教の秘密深遠なる霊界交流の作法により、大祖元(おおそげん)以来この世に生を享(う)けた全ての御霊を浄化供養し尽して余すところのない尊い供養です。

また「かむながらのみち」の神仏和合の精神に則り、同時期に身曾岐神社天空神の間において、中臣御祓(なかとみのおんはらい)25座をもって御霊の清めと鎮魂の儀が執り行なわれます。

神仏両道による、先祖の流れ・前世の流れ――縦横のカルマを解消する当会の理趣三昧供養は、まさしく唯一無二の尊き法であると自負しております。

成就院では3月16日より前行14座が執り行なわれますが、オンラインによる配信は今回で最後とする所存です。会員各位におかれましては、1座でも多く本部、各会場、または身曾岐神社へと直接、足を運ばれ、尊き法の働きをその場で実感し、まさしく「三昧(さんまい)」の境地を体得されんことを至心より願う次第です。

また、今年は弘法大師空海の御生誕1250年という記念の年に当たります。真言宗各派では様々な法会(ほうえ)・催しが開かれると伺っておりますが、そもそも法とは本来、一子相伝。はるか古代より師から弟子へ連綿と絶えることなく伝え続けられ、今に至るのが信仰の世界です。その継承は血の繋がりにも喩(たと)えられ、師と弟子は文字通り親子として共に研鑽を積んできた歴史があります。

そのような意味で、皆様自身、お大師様の法に連なる末子(ばっし)として、本年は是非、様々な場面で報恩反始(ほうおんはんし)(恩に報い始めに反(かえ)る)の精神で祈りと学びに徹していただきたいと存じます。

さて、今月から私ども「かむながらのみち」の道祖であります解脱金剛尊者の『真行』について、私なりにひもとくことを始めて参りますが、まずその冒頭の一節を掲げさせていただきます。

神人世活(しんじんせいかつ)の意義(いぎ)

神人世活(しんじんせいかつ)とは信神世活(しんじんせいかつ)と解(かい)してもよい。所謂(いわゆる)宗教世活(しゅうきょうせいかつ)を意味(いみ)するのであるが、宗教(しゅうきょう)という言葉(ことば)は不徹底(ふてってい)であり而(しか)も神祇思想(じんぎしそう)や随神世活(ずいしんせいかつ)には適切(てきせつ)でないものがあるから之(これ)を用(もち)いない。

『真行』は、この「神人世活の意義」から始まり、「悳行実践」「神霊の認識」「不滅の生命」「神を尋ねて」「神人合一」「父祖の霊」「世界一元」という8項目から成り立っています。

それぞれの御文章は短く、またそれぞれを一つの独立したみ教えとして読むことも可能であり、かつ全体を通して拝読することで信仰の真髄がおのずと感得されるという見事な構成となっております。中でもこの冒頭の「神人世活の意義」と名付けられた一節は『真行』のエッセンス、真髄中の神髄といった感があります。

そもそも道祖が「信仰」ではなく「真行」という表現で、私たちが祈り学ぶべき本筋を示されたことは先月、お伝えした通りですが、ここでもまた「信心」ではなく「神人」「信神」、「生活」ではなく「世活」というお言葉で、み教えの根幹を私どもの魂に強く響かせようとされていることが伺えます。

では、その「神人世活」とは何か、それを理解するためには、まず「宗教という言葉は不徹底である」というお言葉に込められた道祖の深い想い、またその歴史的背景についてふれる必要があります。

――この「宗教」という言葉が今のように広く一般的な神仏の世界を意味するようになったのは明治以来のことです。

もっとも「宗教」という言葉自体は以前よりありましたが、それは文字通り「各宗派の教え」といった意味合いで使われていました。その「宗教」が、明治の開国・文明開化によりもたらされた西洋文明――物品だけでなく様々な思想・文化、その中心となったキリスト教を中心とした「religion(リリジョン)」の訳語として用いられたのです。

そもそも「religion」とは、ラテン語の「religio(レリギオ)」を語源とし、ものを結びつける、義務づける――神と人間との契約、モーセの十戒とか、イスラム教の六信五行(ろくしんごぎょう)のような、神から人間に与えられた約束・義務を履行するという意味です。

そのような観点から、このreligion=「宗教」とは、人間と契約する「神」、その契約がひもとかれた「教義教典」、さらにその教えを世に広めた「開祖」が必須だという、いわば「宗教」という枠組みそのものが明治の文明開化と共に西洋から輸入されたのです。

しかし、日本の「宗教」、特に神道を中心とする日本古来の信仰形態は、いわゆる八百万(やおよろず)の神として、その性格や意味合いはまさに百花繚乱(ひゃっかりょうらん)、当然のことながら、そこに定まった「教義教典」などない。ましてや、その教えを広めた「開祖」は誰かという特定もできない。ただひたすら神仏を敬い、ご先祖を尊び、見えない世界に対する儀礼・儀式(いわゆる「祭り」)を生活の中心として生きて来た長い歴史があるわけです。

そこに明治維新によって、西洋から「religion」という枠組みそのものがもたらされ、この「religion」の範疇に入らない宗教は、いわゆる劣った宗教、幼稚な信仰、淫祠邪教(いんしじゃきょう)であるとして、時の政府から徹底的に弾圧されました。

その一方で、明治政府が天皇陛下中心の国家創りの礎とした、いわゆる「国家神道」は、そのような「宗教」には当たらない。それは日本の国柄、国体(こくたい)であるとして、日本人が何千年にもわたって培ってきた「かむながらのみち」をかえって歪(ゆが)め、貶(おとし)めていった事実があることも、また否定できません。

そのような明治以来の流れを受け、道祖はこの『真行』という小冊子を世に訴えかけるにおいて、あえて「宗教という言葉は不徹底である」と、その冒頭で喝破されたのです。

私は、このお言葉を拝読する度に胸が震える思いが致します。今の私たちが実感することはなかなか困難かもしれませんが、これはとても勇気の要るお言葉です。歴史そのものを変えてしまおうという、いわばマニフェスト、宣言と言ってもよいでしょう。そのくらい意味と価値があるお言葉なのです。

もちろんここで道祖は「宗教」を否定しているのではありません。「不徹底」、すなわち「宗教」ではまだ徹底されていない、未熟である、さらにその先があるのだと、道祖はおっしゃられているのです。

では、その私たちが本当に目指すべき境地はどこにあるのか。それが「神祇思想や随神世活」、すなわち「神随(かみながら)の道」、すなわち日本人が古来より連綿と培ってきた本来の意味での神道、「惟神之大道(かんながらのだいどう)」、すなわち「かむながらのみち」であるというわけです。

現代(げんだい)の人々(ひとびと)が正(ただ)しい宗教(しゅうきょう)に依(よ)りて身(み)を立(た)て身(み)を修(おさ)めて行(ゆ)く事(こと)はとりもなおさず(解脱(げだつ)の道(みち)に精進(しょうじん)せられ)大日本(おおひのもと)の精神(せいしん)を顕揚(けんよう)する事(こと)になるのであり、又(また)その目的(もくてき)に向(む)かって已(のみ)、宗教(しゅうきょう)の自由(じゆう)が許(ゆる)されているのである。
外国伝来(がいこくでんらい)の宗教(しゅうきょう)に頼(たよ)るのだなどと思(おも)ったならば、トンデモない、大間違(おおまちが)いである。
それ同時(どうじ)に宇宙(うちゅう)の真理(しんり)に適(かな)った精神(せいしん)を養(やしな)うものではなくして(金(かね)や)(健康(けんこう)を)満(み)たさんが為(ため)に、信仰(しんこう)を捧(ささ)げるというのは(邪道(じゃどう)の教(おし)えである)。
吾人(ごじん)よ、真行(しんこう)の結果(けっか)として、幸福(こうふく)は恵(めぐ)まれるものである故(ゆえ)に同時(どうじ)に、現実(げんじつ)の生活(せいかつ)を無視(むし)して空漠(くうばく)たる、観念(かんねん)の宗教(しゅうきょう)に酔(よ)う事(こと)勿(なか)れ。

(『ご聖訓』第一巻より)

では、その日本人の精神伝統の根幹とは何か。私たちが立ち返るべき日本人本来の生き方である「神人世活」、神と人とが一体となり、世を活かし、世に活かされる道とは、一体何であるのか。そのことを次回、ひもといていきましょう。

(つづく)

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