人智(じんち)如何(いか)に開(ひら)けたりと雖(いえど)も宇宙(うちゅう)の神秘(しんぴ)に比(ひ)すればなお九牛(きゅうぎゅう)の一毛(いちもう)にも足(た)りない。而(しか)も此(こ)の人智(じんち)たるや神慮(しんりょ)によってわずかに開眼(かいげん)せられたものが其(そ)の片鱗(へんりん)を窺(うかが)い得(え)た結果(けっか)に外(ほか)ならぬ。(中略)
故(ゆえ)に神(かみ)を意識(いしき)し、神(かみ)に通(つう)じ神慮(しんりょ)のまにまに生(い)きんとする神人世活(しんじんせいかつ)は最(もっと)も自然(しぜん)の道(みち)であり、人間生活(にんげんせいかつ)の根本道(こんぽんどう)である。
皆様と共に読み進めております道祖解脱金剛尊者の『真行』。中でもこの「神人世活の意義」の一節は真髄中の神髄。『真行』全体のテーマというべき大切な箇所であります。実は最近、まさにこの一節を心底から味わい尽すような体験を私自身が神仏より頂戴致しましたので、本誌面を借りて皆様にお伝えする次第です。
―― 長年、本会と深いご縁のある方よりご相談がありました。その方は、ある経緯から鏡をお預かりするようになったそうです。しかもそれは御神鏡として祀られていた由緒あるもので、無下に扱うことはできない。こちらの成就院でお預かりしてもらえないだろうか、というご相談でした。ちょうど3月の不動尊例祭の日でありました。
そのお話を伺った時、私は「考えてみます」と至極あいまいな返答を致しました。というのも「さわらぬ神に祟りなし」、そういったものには様々な人の念や業(ごう)、カルマが込められている場合が多いので、私の中に逡巡(しゅんじゅん)があったことは事実です。
その夜、翌日が名古屋出講でしたので早めに就寝しましたが、夜中に激痛で目が覚めました。左の目が開かなくなり、まるで針で刺されたような痛み。それが朝まで続いたので、夜が明けるとすぐに会場へ連絡、そちらへ行けそうにないので、自主会合にしてください、午後のご指導までには治しますからと伝え、すぐに病院へ駆け込みました。診てもらったところ、医者からは何と「黒目に穴が開いています」と驚くべき言葉が告げられ、私は瞬時に悟りました。私が間違っていたと。
物理的に何か目に刺さったとか、傷つけたとか、そのような記憶はありません。ましてそれだけの怪我ですから、普通であれば何か思い当たる節があるはず。そういったものが一切なく、ただ目が開かない。これは神仏からのご啓示以外の何ものでもない。しかも目の病は「心願」に関わる事象ですので、私の中に神仏へのご不敬があったことへのお諭しであることは間違いありません。
もちろん、それは前日にお話のあった鏡のこと。その御神鏡を見ることもせず、できれば避けようとしたことへのお諭しである。神仏は未熟な者や至らぬ者に対して、時には痛みをもって「これでも分からぬか」と、その心得違いを正そうとなされます。ましてそれが神仏に直接関わることであれば尚更です。
私はすぐにその方へ連絡し、まずはその鏡を見せていただきたいと。そして、とりあえず点眼治療にて痛みをおさめ、午後のご指導を映像にて無事終えさせていただいた後、携帯に送られてきた写真を見た瞬間、「これはただならぬご神縁」であると思わざるを得ませんでした。
その鏡は清瀧大権現(せいりょうだいごんげん)の御神鏡で、表には本地仏(ほんじぶつ)である准胝(じゅんてい)・如意輪(にょいりん)の両観音が浮き彫りにされ、裏には昭和33年7月1日に、当時の醍醐寺座主三宝院御門跡であられた岡田戒玉(おかだかいぎょく)猊下が開眼された旨がはっきりと記されていました。
この岡田戒玉猊下と道祖解脱金剛尊者との深いつながりについては、また稿を改めて皆様にお伝えしようと思っておりますが、道祖の霊的な活動の中心である「御五法(おんごほう)」が見出されたのも、この戒玉猊下とのご縁があったからこそでした。
そして清瀧大権現とは、皆様ご周知のように弘法大師空海が中国より招来した密教の守護神であります。
その由来は法華経にも説かれている八大龍王の一つに数えられる娑掲羅(しゃがら)龍王の第三女・善女(ぜんにょ)龍王。もともとインド無熱池(むねっち)で密教を守護していた善女龍王は、密教の東流にしたがい唐の国へと飛来し、大唐青龍寺(だいとうせいりゅうじ)の守護神として名を「青龍」と改め人々から崇められていました。その青龍寺で空海が恵果阿闍梨(けいかあじゃり)より密教のすべてを継承され、日本に帰国されると、青龍はその御徳を慕い遣唐使船の中にあらわれ密教の教えを授けてほしいと懇願します。空海はその深い求道心に心をうたれ、青龍を京都・高雄山中に勧請しました。また海をわたってきたことにちなみ、名を「青龍」から「清瀧(せいりょう)」とさんずいを加え、「清瀧大権現」としてお祀りをされたのです。
時は移り、空海が入滅されて約70年後、空海の孫弟子にあたる聖宝理源大師は、醍醐の山上で天女のごとき神が降臨するのに出会いました。その神女は「我は是れ娑掲羅龍王の王女であり、准胝観音・如意輪観音の化身なり」と名乗られました。聖宝は、宗祖弘法大師空海と深い関わりがある龍王が醍醐寺ご本尊の化身として出現されたことに深く感銘し、清瀧大権現として醍醐の鎮守とされお祀りをされたのです。
また、そもそもこの鏡をつくられた方は、ご教主や私の師である岸田英山先生のお弟子さんで、法名に「憲」という字を頂戴しておられました。この憲とはもちろん道祖解脱金剛尊者の御法名「岡野聖憲」からであり、私が知る限りこの「憲」という字を頂戴しているのは、この方も含めお二人しかおられません。
その方は醍醐の法脈で教会をされていたようですが、亡くなられた後、お子様に教えは継承されず、ご本尊としてお祀りされていたその御神鏡をどのようにしたらよいかということで、私のところへお話が来たというのが、その経緯でした。
私は、これはまさしく目を開け、すなわち「開眼せよ」というお諭しなのだということがはっきりと分かりました。
というのも、この数年来、私の周りで様々な形で龍神の顕現と思われる事象が相次ぎ、祈る必要性を痛切に感じたことから、第二道場1階の座敷にお祀りしております青不動の剣に絡みついたお姿の倶利伽羅(くりから)龍王を「八大龍王」として日々の勤行に加えたのが2年ほど前のこと。
また、この御神鏡の話が来る、まさに数日前のこと。私の三男である成敬(じょうけい)が婿入りしております大原山(だいげんさん)不動院の御住職・大原弘敬(おおはらこうけい)師から、故あって境内に醍醐の守護神である清瀧大権現をお祀りすることにされたというお話を伺い、その深い想いに感銘したばかり。
しかも私は以前より、岸田英山先生が「清瀧さんを五法で祀らなくてはいけない」と常におっしゃっていたと、ご教主よりお話を伺っていたこともあり、今回この御神鏡が私のところへ招来されたのは、まさしく「ご神縁」であり、目を開け、すなわち「開眼せよ」ということなのだろうと、私の中で決意が固まったのです。
その後、私の左目ですが、3日後に病院で診てもらったところ、既に穴がふさがっており、医者は「ありえない」と目を疑っておりましたが、私にとってこれは奇蹟でも何でもない。まさしく霊障であり、その出来事の意味を受け取った者がきちんと悟り、それに従って行動すれば必然的におさまるものと、至極当然のこととして受け止めました。
翌4月の月例祭の折、その方が実際に御神鏡をお持ちになられたので、ありがたく拝領し、成就院御本尊・大成不動明王の前に仮祀りとして設え、今は浄化の行に入っております。その行を終えた後、あらためて開眼し、来年新本部道場が竣工した暁には、第二道場玄関脇にお社を建立し、密教の守護神・清瀧大権現としてお祀りすることと致しました。
その日、御修業で道祖、そして英山先生からの霊示を頂戴することができましたが、清瀧大権現をお祀りし、多くの方が祈れるようにしてほしいとのことでした。
思えば金剛山平間寺(へいけんじ)(川崎大師)も、成田山新勝寺(しんしょうじ)も、密教の守護神であるこの清瀧さんを大切にお祀りし、多くの参拝者が手を合わせておられます。もろちん寺の発展が目的ではなく、この清瀧大権現をお祀りすることにより、真の「法」が働かれ、多くの方の幸せにつながることを確信しております。ましてや本年は弘法大師空海の御誕生1250年という大きな節目の年に当たります。見えない世界からの深い想い、意図を痛切に感ぜずにはいられません。
これは後に知ったことですが、石井俊子・修法部長が今から9年前、この成就院の本堂が落慶して1年ほど経った頃、成就院の上に龍神が飛来し、私が祈願している夢を見て、そのことを副住職の亮成に相談したところ、「南無清瀧大権現」と唱えるとよいと言われ、以来そのように唱えていると伺いました。
神仏からのメッセージは、さらに続きます。5月18日、神戸で会合を終えた翌日、私は上醍醐へと登拝を致しました。醍醐寺には清瀧大権現をお祀りするお宮が上醍醐と下醍醐にそれぞれあります。今から45年ほど前、私が伝法学院生だった時、私は下醍醐の清瀧宮拝殿で120日間の四度加行(しどけぎょう)を勤めました。そして今回、私は上醍醐の清瀧宮本殿で1時間ほどの神拝式を勤めることにしたのです。
その日は実に穏やかな天気でしたが、私が祈りを始めると俄(にわか)に突風が吹き、お社が「かたかた」と音を立てて揺れ始めました。最近、日本各地で地震が頻発しているので、私はまた地震だろうと思い、そのまま行を続け、2、3分も経った頃でしょうか、何事も無かったかのようにおさまりました。
私は下山し、寺務所にいた職員の方々に何気なく「先ほど地震があったね」と声を掛けると、「いや、地震など起きていません」との答え… … 。そんなはずはないと、携帯のニュースで見ても、やはり地震など発生していない。その時、私はあらためて悟ったのです。神仏に対し真摯に向き合い、祈りを捧げる時、神仏はまさに「ここにいるぞ」と、現象をもってその存在をあらわしてくださるのだと。目に見えるものの元には、神の存在、見えない命の存在があるのだと、あらためて身をもって実感した体験となりました。
信仰の本質は祈りです。ですが、その祈りは、必ずや現実を動かすものとなります。もし現実が動かなければ、それは祈る目的が違うか、祈る心がちがうか、形が違うか、対象がずれているか。いずれにせよ、祈りの心と形をしっかりと整えることで、現実の動き、行動が変わってくるはずです。
道祖はこの『真行』という御本を出される時、一般に用いる「信仰」ではなく真行、真の行ないを心掛け、神仏に通ずる境地に至ることが肝要だと説かれました。
様々な出来事の中から、見えない世界についてはっきりと認識した時、私たちは人生の真理に目覚めます。日々世の中はめまぐるしく変わっていきますが、真理― ― 神理は不変であり普遍です。この見えない世界に目覚めることが信仰、真行の原点です。そのためには祈りと学びを繰り返すこと。これを「行(ぎょう)」と言います。
私ども「かむながらのみち」は、祈りと学びを世の中に率先して実践し、その心と形を広く世の中へと広げていく大きな使命、お役目があるのです。
先日、私はアメリカ・シリコンバレーに在住する会員のもとへ1週間ほど出向いて参りました。その体験談はまた後日、この誌面でお伝えする所存ですが、思えば岸田英山先生が単身、布教のためにアメリカへ渡ったのは今から70年以上も前のこと。横浜の大桟橋から船に乗り、1ヶ月くらいかけてサンフランシスコの港へ着き、そこからアメリカでの布教が始まったのです。
そこには、もう二度と日本の地を踏むことはないという覚悟と、敗戦国の教えをアメリカの人々に広めるという強い決意。それがどんなに困難なことであったか。その想いに及ぶはずもありませんが、やはり私も新たな決意と誓願を胸にアメリカの地に立たせていただきました。
「一生懸命」とは、命を懸けると書きます。文字通り、自身の使命に命を懸けて臨んだ時、私たちは初めて価値あるものを手にすることができます。「神に通じ神慮のまにまに生きんとする神人世活」とは、神仏にすべてを託し、命さえも天命の下にお預けした瞬間、最高の幸せと充実感と共に訪れるのです。
そのためには、祈ることです。学ぶことです。自身を深く探求していくことです。毎朝の勤行の中でお唱えしている祈願文、これは決して通り一遍の唱え文句ではなく、この命を神仏のもとにお預けし、使命のもとに本日もお使いいただきますという宣言なのです。
今年もあと半年を迎えたこの時節に、お互い様に気をあらため、日々生まれ変わるような気持ちで真行世活に励んで参りましょう。
次回は『真行』の「真行実践」という項に入り、今回ふれられなかった修験道と在家信仰のあり方について見ていきたいと思います。