今年の夏は「猛暑」という言葉が耳慣れてしまうほど、かつてない異常な暑さでした。8月に国連のグテーレス事務総長が「地球沸騰化の時代が到来した」と警告したことも、皆様の記憶に新しいことと思います。
気温の急激な上昇により山火事などの災害が世界中で頻発しております。これを「人災」と捉える向きもあり、それは決して間違っておりません。人間がこれまで欲望のままに自然を破壊してきた結果であり、「自業自得」「因果応報」である。それはもちろんなのですが、我々信仰者は同時に、そこにも「神仏からのメッセージ」を読み取ることを忘れてはなりません。
神仏は、この状況においても我々人類を見捨てず、「気づきなさい」「改めなさい」と手を差し伸べてくださっている。そのように受け止めることがなければ、この「人災」という言葉も、単に「企業が悪い」「政府が悪い」と、他者を指さす掛け声の一つになってしまうでしょう。
私たち人類が、ここで学ぶべき点はただ一つ。「祈り」をもって、今のこの危機に瀕(ひん)した地球に向き合うこと。神仏からのメッセージをみずからのものとして受け取る感性を養うためにこそ、まず祈りから始める。祈りが何よりの出発点である。
そして、そのようなみずからの気づき、成長をこそ望む若者を、大切に育み、導いていくこと――そのような決意を新たにした、この夏でもありました。
信仰(しんこう)の対象(たいしょう)は明確(めいかく)でなければならない。漠然(ばくぜん)と神(かみ)とか仏(ほとけ)とかいう概念(がいねん)を対手(あいて)としていたのでは摑(つか)み所(どころ)がない。さりとて、何等(なんら)の系統(けいとう)も組織(そしき)もない特異(とくい)の分霊(ぶんれい)や化神(けしん)を対象(たいしょう)とすることは邪道(じゃどう)に陥(おちい)る危険(きけん)を伴(ともな)う。
人類(じんるい)は勿論(もちろん)、地上(ちじょう)の万物(ばんぶつ)は悉(ことごと)く天神地祇(てんじんちぎ)の経綸(けいりん)に随(したが)って其(そ)の生活(せいかつ)を律(りっ)し奉仕(ほうし)を完(まっと)うせねばならぬのである。此(こ)の神意(しんい)を如実(にょじつ)に具現(ぐげん)すべき特殊使命(とくしゅしめい)をもつのが人類(じんるい)である。謂(い)わば天神地祇(てんじんちぎ)の子孫(しそん)ともいうべきである。
天神地祇(てんじんちぎ)の神々(かみがみ)といっても猶(なお)空漠(くうばく)としてつかみ得(え)ないかも知(し)れぬが、宇宙(うちゅう)は之(こ)れ悉(ことごと)く神(かみ)の表現(ひょうげん)であり万象(ばんしょう)の奥(おく)には皆(みな)神(かみ)が在(おわ)すのであるから、一切(いっさい)を神(かみ)として恐(おそ)れ畏(かしこ)むことこそ大切(たいせつ)な心(こころ)の問題(もんだい)で、之(これ)が信仰(しんこう)の初(はじ)めである。
万物同根(ばんぶつどうこん)の真理(しんり)から、山(やま)にも、川(かわ)にも、木(き)にも、草(くさ)にも、人(ひと)にも獣(けだもの)にも皆(みな)それぞれの主宰神(しゅさいじん)があり、宇宙統率(うちゅうとうそつ)の大神(おおがみ)を中心(ちゅうしん)にまつろうている。此(こ)の複雑多岐(ふくざつたき)な宇宙現象(うちゅうげんしょう)と神界(しんかい)の組織(そしき)とに対(たい)し、先(ま)ず明確(めいかく)なる認識(にんしき)を有(も)って然(しか)る後(のち)各々(おのおの)の機縁(きえん)により如何(いか)なる神(かみ)を通(つう)じて信仰(しんこう)を遂(と)げても、帰(き)する所(ところ)は根本(こんぽん)の中心(ちゅうしん)にまつろう道(みち)を誤(あやま)らぬことが絶対(ぜったい)の要件(ようけん)である。
さて、前回より道祖『真行』の「悳行実践」について読み進めております。ちなみに『真行』は「神人世活の意義」から始まり、8つの項目から成り立っておりますが、この「悳行実践」だけ他の項と比して2倍以上の長さがあります。
そこには当時の時代状況を鑑みた上で、道祖が複雑な表現を駆使しつつ、何とかして読み手に信仰の真髄を伝えようとされた努力の跡が伺われます。そのため直接的な表現でない分、一見すると分かりにくい箇所もあり、読み取る上で細心の注意が必要です。
まず今回挙げた御文章のポイントをまとめていきます。道祖がここでおっしゃろうとしている内容は次の2つです。
① 信仰の対象は漠然としたものであってはならない。そのためまず明確な認識を持った上で、それぞれの機縁によって真行の道を進むこと。
② その真行世活の中心にあるのが「天神地祇」である。
このうち②の「天神地祇」については、これを単に神道の世界でいう「天(あま)つ神(かみ)、国(くに)つ神(かみ)」と同義と見ることは、道祖の真意を大きく外すことになります。このことは次回で詳しくふれていきますので、今回は①の「信仰の対象」について、皆様と共に道祖の想いの一端にふれていきたいと存じます。
「信仰の対象は漠然としたものであってはならない」というのは、要するに学問の世界、あるいはご利益信仰などで取り扱われるような、みずからの生活や生き方に何ら交渉なき「神仏」といった捉え方を指します。
神仏をあたかも哲学上の概念や思想といった観点で捉える。あるいは、「どこそこの神様に願うとお金が儲かる」などといって、観光気分でお賽銭を投げ入れ、自己の欲望のみ肥大化させるご利益信仰。そういった態度を道祖は徹底的に批判しました。
では、どのような向き合い方が私たちには求められるのか。道祖は後の項で繰り返し神霊の実在の認識、見えない世界に対する感性を養うことを強調されています。そこで見逃してはならないのが、今回の「機縁」というお言葉です。
信仰の世界では「法脈(ほうみゃく)」という言葉があります。「法」とは、人類が長きにわたって培ってきた神仏に対する向き合い方、その心と形のこと。その「法」を伝承してきた流れのことを法脈とよんでいます。
この法脈は「血脈(けつみゃく)」ともよばれ、血の流れにも喩えられるように、師匠から弟子へ、その弟子がまた師匠となり、次の弟子へと、延々と伝承されてきたものが「法」です。
「師資相承(ししそうしょう)」「一子相伝(いっしそうでん)」などという言葉もありますが、信仰の世界の学びは「何を教わったのか」ということ以上に「誰から教わったのか」という側面が重要です。いわば法の出自(しゅつじ)、出所(でどころ)がはっきりしていなければ、先の道祖のお言葉を借りると「邪道に陥る危険を伴う」からです。
現代は情報網の発達により、かつて「秘伝」とよばれていた内容も簡単に検索できてしまう節があります。もちろん殊更に秘密めかして権威をふりかざし、自己の権益を守ろうとする輩(やから)は言語道断ですが、先ほども申し上げたように信仰の世界は師から弟子へと受け継がれていくもの。でなければ、その得た知識や形も真の意味で活かされない。法が働かない。それどころか、下手をすると「魔」をよせつけてしまうことになりかねないのです。
道祖がここでおっしゃられている「機縁」とは、すなわち皆様がいただいている法脈とのご縁。これを私たちは「ご法縁」という言葉で表わしています。ちなみに、かむながらのみちのご法縁とは、皆様ご存じの通り、神道は身曾岐神社で継承されております古神道であり、仏教は本山醍醐寺から頂戴しております真言密教の流れです。
もちろん、ご法縁はそれぞれであってよいのです。「先ず明確なる認識を有って然る後各々の機縁により如何なる神を通じて信仰を遂げても」という道祖のお言葉の通りです。ですが、その「機縁」、ご法縁というものを大切にして、そのご縁を遂げる――その道を行くと決めたら、文字通り完遂するまで精進努力し続ける。そのような姿勢が信仰者、真行者には必要です。
私たち在家宗教者は、日々の生活の中で真行を実践しようとする者です。が、そこには必ず「師」の存在。すなわち見えない世界に対する祈りの心と形を導いてくださる方が必要です。そして、そのご縁を頂戴したなら、そのご縁を尊び、随う。結縁(けちえん)→尊縁(そんえん)→随縁(ずいえん)という道行きが、特に在家の真行者にとっては絶対不可欠なポイントなのです。
では、そういった信仰のご縁であれば何でもよいのかというと、そうではありません。そこで重要なのが「天神地祇の経綸」、すなわち信仰の世界を支える根本的な拠り所、真行実践において決して欠かすことのできない秩序、前提というものがあるのです。
次回の感謝祭号では、この「天神地祇」というお言葉に込められた意味――「統合」ワンネスということについて、当時の時代状況も鑑みつつ、いかに道祖がこの箇所に思いを込められたかについて見ていきたいと思います。