会長からのメッセージ

不可能との約束

かむながらのみち立教25周年、並びに新本部道場落慶、洵におめでとうございます。

本日は全国会員を始め、多くのご来賓の先生方にもご臨席を賜り、本式典をかくも盛大に挙行できますことを心より御礼申し上げます。

奇しくも本年は真言宗醍醐派総本山醍醐寺の開創1150年、また「紀伊山地の霊場と参詣道」が世界遺産に登録され20周年という佳節にあたり、神仏による深淵なるお手配を感じずにはいられません。

思えば平成31年初頭に、この立教25周年・新施設建設事業について皆様に告知し、翌令和2年からその事業遂行に向け本格的な活動に着手せんとした矢先、私たちはコロナ・パンデミックに直面しました。

正直なところ私自身、深く悩み、葛藤しました。このような中で、果たしてこの事業を推進してよいものか……己自身に問い、何より神仏の御前で祈り、神意仏心を問うた結果、確信したのです。

「このような時だからこそ、やるべきだ」と。人類未曾有の危機に直面している今だからこそ、本物の祈り、真の信仰の源となる場所――新たなる聖地の確立が不可欠であると。

そしてもう一つ、この新道場は文字通り全国会員一人一人の浄心で成り立たなければならない。

そのため、私は誠に畏れ多いことですが、奈良・天平時代、聖武天皇が大仏建立の際に出された御詔勅(ごしょうちょく)の一節、「もし一枝の草や一握りの土でも持ち寄って造像に協力を願い出る者があれば、それを許し受け入れよ」という御言葉を引かせていただき、会員一人一人が「自分たちで新なる道場を創る」意識で臨むことが、この事業の眼目であると繰り返し、お伝えして参りました。

その結果、実に多くの方がお心をお寄せくださり、かくも立派な新本部道場が、このみ教え発祥の地に竣工なったことに、私は深い感動の念を禁じ得ないと共に、ご参集の皆様、全国会員一同と共に心からお慶び申し上げる次第でございます。

このかむながらのみちは今から25年前、平成11年5月5日に故北川和光前会長(和光心院様)・北川慈敬教主のもとに立教、当初から旧本部道場の神前仏前は会合のたびに参座者で満員、襖や扉を外し、廊下や外に敷物をしいて皆様をお迎えしておりました。

それから平成15年4月、本部道場隣の拙宅を金剛山成就院として献納、落慶の運びとなり、平成16年5月には山梨県北杜市の身曾岐神社にて初めての大祭、平成18年3月には旧第二道場の取得、翌平成19年5月1日には文化庁より宗教法人としての認証を頂戴し、そして平成20年6月10日、和光心院様がご逝去されましたことは皆様ご周知の通りであります。また、本誌に立教当初から法人化に至る本会の歴史を振り返られました和光心院様、並びにご教主の御文章を再録しておりますので、併せお読みいただければと思います。

そして平成21年、私どもが立教10周年を迎えたのも束の間、平成23年に東日本大震災発生、そこから立山修験講発足、各会場による布教イベント開催、納骨供養塔の開眼、慈敬学院の開講など、様々な形で私どもの祈りと学びの輪が広がっていったのは、やはりこの日本という国の根幹を揺るがす危機に直面してのことでした。

平成25年3月10日、新第二道場・金剛山成就院新本堂落慶、平成26年には日比谷公会堂にて立教15周年記念式典が催され、そして新時代の幕開け――令和の御世の到来を心よりお慶び申し上げた、まさにその翌年から先のようなパンデミックの試練を頂戴したのでした。

私は常々思っていることがあります。ビジョンとは「不可能との約束」であると。

ビジョンを描くことの大切さ――これは私自身、トレーナーとして人々の成長プログラムに従事している中で痛切に感じていることであり、また信仰者としても不可欠の要素であることは、この学びの中で再三再四、皆様にお伝えしている通りです。

と同時に、このビジョンとは、世間では「夢」「未来像」などと訳されており、確かにそれに違いはないのですが、私自身の中では、このビジョンを明確に「不可能との約束」と定義しております。

今、私たちが直面している課題、問題は、一見すると解決不可能と思われることばかりです。地球温暖化による環境問題、ロシア・ウクライナ、イスラエル・パレスチナの戦禍を始め、いまだ止まない国家・民族間の争い。テロや独裁政権により人権・人命が蹂躙され、人心の荒廃は暴力・犯罪といった形で現われ、いったいどこに救いがあるのかと絶望さえ抱く瞬間があります。

ですが、そこで諦めたら、文字通り「終わる」のです。

人類の歴史を振り返ってみても、世の中に大きな変革をもたらした偉人たちの多くは、「不可能」と誰もが思うことに挑み、世間から笑われ、迫害され、時には命終えるまで人々の評価を得ることがなかった人たちです。ですが、そのような人たちが命を賭して、その不可能に挑み続けたからこそ、道は開け、革命ともいえる出来事が成し遂げられてきたのです。

もちろん、その偉人たちの中にも「これは不可能ではないか」と思い、迷う心は常にありましたでしょう。ですが、みずからの心の奥底の魂から湧き上がる、「これに挑むことが私自身の使命である」という確信も同時に得ていたはずです。それこそが神性・仏性、神仏より与えられた御霊の世界以外の何ものでもありません。

私はこの道場落慶を機に、会員の皆様に「切願」ということをお伝えして参りました。誓願から切願へ。神仏が動かざるを得ないような切なる願い。環境問題、世界平和、人心の救済――不可能と思われるようなことも、それに挑むことが己自身の使命であり、何より人類そのものがそれを求めている「大義」であると確信し、祈り、祈り、また祈る――その祈りのために、この新本部道場はあるのです。

不可能との約束。では、誰と約束するのか。神仏です。祈りとは、すなわち神仏との約束です。

この不可能を可能にするのだという、強い意志と不断の努力を約束するために、日々の祈りを捧げ、その上で各々の生活の中で一歩一歩、確実に前へと進む。そのような人にこそ、神仏は「ビジョン」を与え、道筋を示し、自分一人では決して成し得ない「運び」をくださるのです。また、そのような生き方をしていくからこそ、日常の様々ことも自然と整っていくのです。

思えば、このかむながらのみちという教団にしても、その発足当初において果たしてどれだけの人がここまで大きく全国へとみ教えの輪が広がっていくことを描いていたでしょうか。しかし和光心院様、そしてご教主は明確に、それこそ不可能と思われるようなことを描き、祈り、そして実現していった。その中で、自然と様々なことも整えられていった。そのような生き方そのものを、私どもは現実に見せていただいた。それがこれまでの教団の歴史そのものです。そして、これからは、私たち次の世代が、新たなビジョンを描き、不可能を可能にするための約束を、新たな道場において、しっかりと神仏のもと、結んでいくのです。

神(かみ)の道(みち)に二(ふた)つも三(みっ)つもない。宇宙(うちゅう)は一(ひと)つの法則(ほうそく)に統一(とういつ)されているのである。此(こ)の点(てん)では在来(ざいらい)の既成宗教(きせいしゅうきょう)の布教(ふきょう)や宣伝(せんでん)などに多(おお)くを期待(きたい)することは出来(でき)ない。唯々(ただただ)宗教(しゅうきょう)によって錬成(れんせい)せられた仁愛(じんあい)と至誠(しせい)とを以(もっ)て接(せっ)したならば真(しん)に人(ひと)を動(うご)かし得(う)るであろう。其(そ)の時(とき)は既(すで)に宗教(しゅうきょう)を離(はな)れているのである。

愛(あい)は神(かみ)なり力(ちから)なりである。

誠(まこと)も亦(また)神(かみ)の本質(ほんしつ)である。総(すべ)ての宗教(しゅうきょう)の究極(きゅうきょく)は茲(ここ)に一致(いっち)している。各宗教(かくしゅうきょう)の一致(いっち)せる究極(きゅうきょく)は既(すで)に分派対立(ぶんぱたいりつ)せる宗教(しゅうきょう)そのものではない、宗教(しゅうきょう)を一歩(いっぽ)抽(ぬき)ん出(で)て神(かみ)に到達(とうたつ)している。

天神地祇(てんじんちぎ)の大御心(おおみこころ)を奉体(ほうたい)し、世界民族(せかいみんぞく)に接(せっ)してのみ、如何(いか)なる宗教(しゅうきょう)に帰依(きえ)せるものと雖(いえど)も之(これ)を導(みちび)き得(う)るのである。

試(こころ)みに功利打算(こうりださん)を離(はな)れ全身全霊(ぜんしんぜんれい)を以(もっ)て靡(なび)き来(く)る唯一人(ただひとり)の対手(あいて)を獲得(かくとく)して見(み)るがよい。唯一人(ただひとり)を導(みちび)き得(え)ざるものは絶対(ぜったい)に多数(たすう)を導(みちび)き得(う)るものではない。

皆様と読み進めて参りました『真行』も、これが最後の一節となります。最早、これ以上、私が贅言を費やすつもりはございません。道祖のお心はこの一節に、特に最後の「全身全霊を以て靡き来る唯一人の対手を獲得して見るがよい」というお言葉に尽きております。

このかむながらのみちというみ教え――和光心院様、ご教主が大切にしておられた精神は、常に「目の前の一人一人」の救済です。長く学んでいらっしゃる会員諸子の中には、自身が窮地に陥られたとき、お二人の先生方が昼も夜もなく駆け付けて来られ、共に人生課題に向き合ってくださった体験をお持ちの方が多数おられることでありましょう。

そのようなお姿に心を動かされ、今度はご自身が、たとえ先生方には及ばずとも、せめてそのお力の一端にもなればと、菩薩の道へと進まれ、ある方は会場主に、ある方は幹事に、あるいはご奉仕にと、信仰者として生きる心を定められたことと思います。

では、なぜそのような超人的ともいえるお働きを、先生方はできたのか。それこそが「不可能との約束」。神仏と交わした約束があるからこそ、自身の命を賭して、目の前の人、ただ一人のために全身全霊をかけることができるのです。また、それだけのお働きができる力が、神仏より頂戴できるのです。

この度、新本部道場に神々様をお祀り申し上げるに際し、新たに「金剛神」という神様を勧請致しました。この金剛神は、道祖解脱金剛尊者の魂を根幹とし、私ども会員の真行実践――人格完成・霊格向上の道を進むための力、勇気、確信の源となる神です。「金剛」とは不壊の心。固く揺るがない決意。すなわち「約束」です。

どうか会員の皆様におかれましては、この新たなる道場で、しっかりと自身と神仏とを結び直し、新たなる誓い、新たなる願い、そして新生かむながらのみちを共に進みゆく覚悟を心底に刻み込み、これからの未来を共に創り出して参りましょう。

最後になりましたが、これまで私どもの歩みを支えてくださったご来賓の先生方をはじめ、ご縁あるすべての方々へ厚く御礼を申し上げると共に、これからも更なるご指導を賜りたく願う所存であります。

合掌禮拝

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