4月になり日に日に暖かさが増すと共に、街には小さな体に真新しいランドセルを背負った小学生や、仕立てたばかりのスーツに身をまとう新社会人の方々が目につくようになりました。
初々(ういうい)しい彼らの姿を見るたびに、自分自身が新たなスタートを切った頃のことを思い出し、初心に立ち返る思いのする方も少なくないことでしょう。
たとえ世情が暗く厳しいものであったにしても、それぞれの人生における門出はやはり明るく、尊いものです。そんな新たなステージに立つ人たちの前途を祝い、温かな気持ちで迎えることは、人生の先輩としての大切な務めであり、心から「おめでとう」とお祝いとエールを送る所存です。
さて、最近とある会場の会合で体験したことです。1月の会合に小学校4年生の息子さんを連れてこられた会員さんがいました。その子は一番前に座り、目を輝かせて私の話を聞いていました。私はできるだけやさしい言葉を使いながら、「たとえ分からなくてもいい。きっと大人になる頃には分かる時が来るから」と勉強を進めていきました。
先月、再びその会場に出講した折も、やはりその子が一番前に座り真剣に耳を傾けていました。「どう、分かるかい」と聞くと、「分かります」という返事。さらに、後で親御さんから伺った話に、私はいたく心を打たれたのです。
その日、朝会合に出かける際、息子さんに「どう? また一緒に行くかい?」と聞いたそうです。すると息子さんは「行きたい」と。そして1月に私が勉強で伝えた内容について、お父さんが驚くくらい覚えていて、話していたそうです。
さらに、彼には10歳くらい上のお兄さんがいるそうですが、ある日、その兄とケンカした折に放った言葉が、「お兄ちゃんも会合に行って勉強したほうがいいよ!」……。
もちろんその子自身の能力ということもあるでしょうが、私は「子どもだから分からない」という観念を自分自身が持っていたことに気づかされました。そうではなく、むしろ子どもだからこそピュアな魂で人生の真理や神仏からのメッセージを受け取ることができる。たとえ言葉や理屈は分からなくとも、その精神を魂レベルでしっかりと感じ取っているのだということをあらためて知らされる体験となりました。
そのことで思い出したのですが、私も5歳くらいの時、教主に連れられ当時の解脱会教統である故岸田英山先生のもとへ通っていました。もちろん幼少の頃ですから、先生の話している内容の意味など分かりません。が、大人になるにつれ、英山先生が話していたことが折にふれ、ふっと思い出され、「ああ、こういうことか」と思い至る場面が多々ありました。
道祖はよく会合の折に「眠っていてもよいのだよ。正しい言葉は霊が聞いているよ」とおっしゃられていたそうですが、ただの知識や理論ではなく、人生の真理にふれる言葉は心の奥底の魂が聞いているのだと、そのようなことも思い合わされ、み教えを伝える身としてあらためて歓びと確信に打ち震える思いがしたのです。
その日の会合には、この度、大学院を出て新社会人となる学生さんも出席されていましたが、彼が体験発表で話したことにも、また感動。彼がいうには、地方から東京に出て一人暮らしをする中で、誘惑は山のようにあった。ただ自分は信仰という柱があったので、自分自身を律することができた。
また、こういった会合に出席することによって、同じ世代の仲間とは違う、それこそ老若男女というか、社会で様々な体験を持った方たちとふれあうことで、ただの学生生活だけでは得られない貴重な学びを得ることができ、これからの社会生活に臨む心構えができた――
私はこういった体験を通じて、特にお子さんをお持ちの親御さんには、是非子どもたちを会合に連れてきていただきたい。たとえ分からなくてもいい、子どもは魂レベルで聞いている。
むしろ親が人生について語っても、子どもは反発することもあるかもしれない。けれども、こういった聖なる場に身を置き、祈りや学びを共にすることで、親が何も言わなくとも子どもは自然と学び、大人になった時の糧となっていく。
この新たな門出を祝う季節に、あらためて信仰の場に若い人たちが集う意味と価値について、お互い様に認識を改めていただきたく思い、私自身の体験をお伝えした次第です。
死滅変転(しめつへんてん)常(つね)なき現象界(げんしょうかい)に住(じゅう)し乍(なが)らなお永遠(えいえん)に不滅(ふめつ)の生命(せいめい)を自覚(じかく)し得(う)ることは力強(ちからづよ)きことである。
肉体(にくたい)の生命(せいめい)に執着(しゅうちゃく)を持(も)つことは自然(しぜん)のことではあるが、死後(しご)個人霊(こじんれい)の生存(せいぞん)する神霊(しんれい)を知(し)ると知(し)らぬとは大(おお)いなる相違(そうい)である。況(ま)して霊(れい)の生活(せいかつ)は時間空間(じかんくうかん)を絶(ぜっ)し、永遠不滅(えいえんふめつ)である以上(いじょう)、それが寧(むし)ろ生命(せいめい)の本体(ほんたい)であることを察(さっ)したならば、死(し)してこそ真(しん)に魂(たましい)の故里(ふるさと)に帰(かえ)ることが出来(でき)る訳(わけ)で死後永遠(しごえいえん)の生活状況(せいかつじょうきょう)を考(かんが)えて見(み)るだけでも愉快(ゆかい)なものである。
死(し)んで花実(はなみ)が咲(さ)くものかと考(かんが)えているものにとっては死(し)は最大(さいだい)の苦悩(くのう)で、その死(し)に際(ぎわ)が思(おも)いやられるが、死(し)しても真善美(しんぜんび)の花(はな)が咲(さ)くことを知(し)るものは幸(しあわ)せである。
人(ひと)が真(しん)に生(い)きる道(みち)を知(し)らんと欲(ほっ)したならば死後(しご)の生命(せいめい)に迄(まで)悟入(ごにゅう)することである。
現実(げんじつ)の生活(せいかつ)に於(おい)て自我(じが)を滅却(めっきゃく)することは肉(にく)の執着(しゅうちゃく)を離(はな)れて精神(せいしん)に生(い)きることであって之(これ)は既(すで)に生(い)き乍(なが)ら霊界(れいかい)に通(つう)ぜるものと謂(い)うことが出来(でき)る。
精神世活(せいしんせいかつ)に徹(てっ)するものは常(つね)に生(い)き乍(なが)ら幽現霊界(ゆうげんれいかい)に自由(じゆう)に往来(おうらい)し得(う)るのである。至誠(しせい)天(てん)に通(つう)じというのは決(けっ)して形容詞(けいようし)ではない。
生(い)きて個我(こが)を滅(めっ)することと肉体(にくたい)に死(し)することとは客観的(きゃっかんてき)には異(こと)なるが主観的(しゅかんてき)には同一(どういつ)である。蓋(けだ)し主観(しゅかん)の我(が)は永遠(えいえん)に不滅(ふめつ)であるからである。
死後(しご)の生命(せいめい)を信(しん)じ得(え)られないものも、実際(じっさい)に死(し)ねば、自(みずか)ら霊(れい)に生(い)きていることを知(し)らせられる。そして生前(せいぜん)の不明(ふめい)を覚(さと)って後悔(こうかい)するのを常(つね)とする。蓋(けだ)し不滅(ふめつ)の生命(せいめい)を知(し)ると知(し)らぬとは生前(せいぜん)の生活(せいかつ)に大(おお)いなる差(さ)を示(しめ)すからである。
さて、この「不滅の生命」から、道祖の『真行』は、いわば後半部分に入ります。
これまで「神人世活の意義」「悳行実践」「神霊の認識」の各章を経ることによって、この書の論旨はすべて説き尽くされ、ここからは各論と言いますか、この真行世活に生きる上におけるポイントのようなものを道祖はお伝えされています。
そのため、かえって分かりやすいと言いますか、格言のようなお言葉が随所に見受けられます。たとえば今回でいえば、「人が真に生きる道を知らんと欲したならば死後の生命に迄悟入することである」「精神世活に徹するものは常に生き乍ら幽現霊界に自由に往来し得るのである」などでしょうか。
もし今の自分にとって心に刺さるお言葉がありましたら、それを何回も拝読、味読していただき、自身の生きる糧とされることを強くお勧め致します。
ここで道祖が「不滅の生命」としてお伝えされているもの――私どものみ教えでは「霊(みたま)・神性(しんせい)・仏性(ぶっしょう)」などという言葉で表わされているものと同じですが、死後も自分自身の生命の本質、本体は決してなくならないのだということを実感することによって、私たちは真に生きる力、勇気、そして精神的な世活を送ることができるというのです。
死後(しご)の霊魂(れいこん)の存在(そんざい)を確認(かくにん)し得(え)ずとするも少(すくな)くも之(これ)を信(しん)ずるものの生活(せいかつ)は一般(いっぱん)に精神的(せいしんてき)、道義的(どうぎてき)ならざるを得(え)なくなる。(中略)かかるものは自(みずか)ら宇宙一体(うちゅういったい)の生命観(せいめいかん)を以(も)って克(よ)く宇宙(うちゅう)の真理法則(しんりほうそく)を弁(わきま)え個人(こじん)の生活(せいかつ)に於(おい)ても常(つね)に全体(ぜんたい)を考(かんが)え、公正調和(こうせいちょうわ)を保(たも)って過誤(かご)少(すくな)きを期(き)することが出来(でき)るのである。
これは『真行』が出された頃と同時期に道祖が書かれた「霊魂の不滅宇宙一体の生命観」という御文章の一節ですが(全文はページに掲載)、これを読めばはっきりと分かるように、道祖は「不滅の霊魂」を実感することによって、何よりこの世に生きる私たちが正しく、全体調和を考え、幸せに生きることができると説かれているのです。
人として生命活動を終える死――死ねばすべて終わり、という考えによって、刹那的(せつなてき)な快楽にふけるばかりか、「自分は死んでもよい」という思い込みから、自身の意に沿わない人や社会に対する恨み、妬みの念をもとにした犯罪行為にまで至る人たちも、現代社会には多く見受けられます。
そのような人たちに対して、この「不滅の生命」で道祖は否(いな)と強くお言葉を投げかけるのです。死んで花実が咲かないどころか、死んだ後にこそ生前の行為、行動が強く問われる。その責を受けるのは自分自身であり、またその徳を受け取るのも自分自身である。そのような真理を悟らずして、何の人生か、何の生命であるのかと……
さらに、この「不滅の生命」で道祖がお説きになられたお言葉には、その当時の時代背景を強く担った意味もあります。
戦場活躍(せんじょうかつやく)の勇士(ゆうし)に於(おい)ても、霊魂(れいこん)の不滅(ふめつ)を信(しん)ずるものと否(いな)とに於(おい)ては其(そ)の境地(きょうち)も奮戦振(ふんせんぶ)りも格段(かくだん)の差(さ)を生(しょう)じて来(く)る、非常(ひじょう)の場合(ばあい)甘(あま)んじて身命(しんめい)を捨(す)て得(う)るは一(いつ)に永遠不滅(えいえんふめつ)の生命(せいめい)を信(しん)ずればこそである。又(また)平素(へいそ)に於(おい)ても真(しん)の安心(あんしん)は三世(さんぜ)を貫(つらぬ)く生命観(せいめいかん)に徹(てっ)してのみ之(これ)を得(え)られる。
こちらはやはり先の「霊魂の不滅」からの一節ですが、これを戦争肯定、戦争礼賛などと表面的に取るのは、当時の切迫した状況を真に理解できていない浅薄な解釈です。
この『真行』が出版されたのは昭和17年5月、前年末に大東亜戦争が勃発し、若者は否応無しに戦場へとかり出されていきました。戦争がどうのこうのと理屈を言う前に、もう目の前では死地に赴く者たちが続々と現在するわけです。
その者たちに送る言葉として、道祖は「不滅の生命」――物理的な死がすべてではない。それを超えたところにこそ真の生命があると強く、それこそ涙ながらに訴えかけられたのです。
そして事実、そのような道祖のみ教えを胸に戦場に赴き、文字通り命をなげうって奮闘したからこそ、かえって奇蹟のように生き延びることができたという会員が多くいたと伺っております。
もちろん戦争という状況は誰もが望むものではなく、反対の声を決して絶やしてはなりません。しかし現に今、世界で様々な争いが起きている中、実際に死と隣り合わせの日々を暮らしている方たちがいるのもまた事実なのです。
そのような中において、私たち信仰者、真行者こそ、文字通り「死んだ気になって」、平和を祈る、み教えを伝える、今の自身の天職に誠心誠意を尽くす。これは人として果たすべき真の務めではないでしょうか。また、そのような真行世活を生きることによってこそ、初めて人は生かされる、魂の奥底から歓びと確信に満ちた人生を送ることができると、道祖はお説きになられているのではないでしょうか。
先月の理趣三昧供養における熱呪熱祷では、個人の祈りだけではなく公(おおやけ)の祈り、今の戦争や災害で亡くなられた御霊に対する真摯な祈りが捧げられました。これもまた道祖のお遺しになられた精神、生き様を私たちが受け継ぎ、そして次代へと伝え続けていくべき大切な使命です。
これからの未来を創り出す若い人たちこそ、このみ教えに流れるスピリット、魂を心の底から求めています。どうかお互い様に、未来への希望と勇気をこの世にもたらすべく、さらなる精進努力を重ねて参りましょう。
そして来月はいよいよ立教25周年を祝う例大祭が執り行なわれます。皆様と共に、このみ教えに生きる歓喜と勇躍を今一度、心の基にしっかり据える機会ともなります。どうか大勢の方が集われることを切に願う次第です。
最後になりましたが、いまだ復興の途上である能登半島地震被災者に対する心からのお見舞いと、犠牲となられた方々のご冥福をお祈り申し上げます。