四月となり、本来であれば入学、進学、あるいは就職と、新しい門出を祝う空気が日本中に満ちあふれている頃ですが、新型コロナウイルスによる感染症の広がりをとどめるため、世界中がまるで臨戦態勢といった雰囲気となっております。
まず何より、この度の感染症により亡くなられた方々のご冥福をお祈りすると共に、いまだ決定的な治療法が見つからない状況下において、必死に病気と闘っておられる方々にお見舞いを申し上げます。
もちろん、私どもは信仰者として、そのような方々の病気平癒、そしてこの事態の早期収束を願い、祈ることは大事です。ですが、それと同じように大切なのが、今や世界的な規模で人類を脅かしているこの出来事に、果たしてどのような意味があるのか。この出来事に込められた神仏の意図は果たして何であるのか――
このような時だからこそ、神仏と共にあることを再度、深くかみしめ、祈りと学びを通してこの世の神理をつかみ、真行者として生きることが強く求められているのです。
会員の皆様におかれましては、それぞれに思うところ、感ずるところがあることと存じますが、今の事態を真実の目で捉えるため、この稿ではリーディングを通していただいております神様からのメッセージをご紹介させていただきたいと存じます。
少し長い引用となりますが、とても大切なお言葉ですので、どうかしっかりと受け止めてください。
現代の人たちは物的なレベルでの原因のみを追求し、それに対して物的に、また機械的に処理したり対応するばかりです。もちろん物的に対応することも必要なのですが、それだけで、もっと肝心の奥深い原因や理由まで見ていこうとしていないのです。
例えばコロナウイルスが蔓延したことに対して、手洗いや消毒をするとか、マスクをするとか、密閉した部屋に多くの人と一緒にいてはならないとか、外出はできたら控えてほしいとか、そういうことだけしか言われていません。
そのような対応も必要ではあるのですが、根本の解決にはなっていないということに、ほとんどの人が気づいていません。出来事から教訓を学びとって改善し、成長することこそ求められていることなのです。
現代人は感謝が足りません。どんなことも当たり前と捉えています。大切にしません。当然と捉えているため、感謝しないばかりでなく、ちょっとでも変わってしまったり思うようにいかなかったりすると文句が出ます。不平不満です。普通ということが、いかに尊く、ありがたく、すごいことであるということに気づいていないのです。
そのため普通でなくなると、途端に対応できなくなる弱さが現代人にはあります。普通に回っているということが、いかにすごくてありがたくて奇跡であるのか。(中略)
第二次世界大戦と太平洋戦争を体験した人は減ってきています。ほとんどの人が戦争を体験していません。競争社会のため、競争の辛さや苦しさは味わってきていますが、生命の危機に瀕するような重大なことは体験していません。食べるものはあるし、より美味しいものを求めています。より快適で楽しいほうへと人々が向かっています。その足元をすくうかのように、コロナウイルスが蔓延してきているのです。
人々はもっと原点に立ち返って、少ないところで満足し、感謝して、素朴に生きるべきでしょう。ちょっとしたことに感謝し、ちょっとしたことを大切にし、ちょっとしたことで素直に喜ぶような、そういう人間本来の慎ましやかな在り方が大切です。
多くの人が恵まれすぎて贅沢で、さらにもっと快適で喜ばしいものをと追い求めています。そういう時代の風潮です。決して悪くはないのですが、麻痺して恵まれすぎていて、本当の幸せとか大切なことが見失われがちです。「分かっている」と言っても、体感として本当には分かっていません。どんどん新しい物や、珍しくて快適なことを追い求めています。
今でも世界の目立たないところでは、生活の基本さえ保障されていない人たちが大勢暮らしています。その意味で、恵まれている人たちと生活の差が歴然とあり不公平です。そういうことを神様は喜ばれません。悪気はなくても、気づかぬまま感覚が麻痺して、より楽しく快適なことのほうへと人々の関心が移り変わっている世の中の動きです。
自然に感謝し、自然をいたわり、自然と調和する生き方ということも少ないです。科学技術も自然の命を無視したり、自然の摂理に反するようなことを行ないつつあります。人工的な開発などです。特に中国には人倫に反するような科学的な実験などが多いです。そういう中国からコロナウイルスが発生しました。
もちろん中国の良さや果たせるお役があるのですが、自分の国だけでなく世界の他の国々にも、物的にも雰囲気としても好ましくないものを及ぼしつつあるものがあります。それが象徴的にコロナウイルスとして、中国から世界に蔓延しつつある動きをとっているのです。
人間が自然にしたことが、自然から返ってきています。正しく捉え、大切にし、適切に対応したことからは、喜びの結果をいただける。一方、正しく捉えず、大切にせず、不適切に関わったことからは、そのことに関して困るという結果が返ってくる。これがカルマの因果応報です。
自然に対して正しく捉えず、大切にせず、自然に対して不適切に関わった結果、新型コロナウイルスが発生し、それによって困るような事態に追い詰められているのです。
このままの人類の価値観や科学技術や生き方をそのまま推し進めていくと、取り返しのつかない事態を人類は招くことでしょう。自然を破壊し、道から外れた科学技術が自然ばかりでなく人類をも痛めつけるような方向に向かっている部分があります。
もちろん良い部分や、良いものをもたらしてる部分もいっぱいあります。しかし手放しでは喜べない、波乱含みの部分もあります。そのことに気づかせ、人々が見直して改善することが、コロナウイルスによって突き付けられているのです。
こういうことに気づいた人から、人間本来の原点のあり方というものに立ち返って、心がけとしても、生き方としても、科学技術の方向としても、自然の摂理にかなったものにするべきでしょう。その方向でなら、人々のためになることは結構ですので、これからも追求して良いのです。
ただ「控えなさい」とか「原始時代に戻らなければならない」という意味ではありません。足りないところで分かち合い、助け合って、共に温かくある社会が求められています。
(ヨハネ・ペヌエル・リーディング №16293より)
私はこのように世の中が大変な事態になった状況を見て、まず直感的に、先の大戦の御霊がまだお鎮まりいただいていなことに思いを馳せました。
このリーディングのお言葉にもありましたように、先の大戦を体験し、文字通り生命の危機に瀕し、食べ物のありがたさを心の底から感じている身としては、今の人たちが「贅沢」であり、「感謝を知らない」という、とてもきついお言葉に対して、やはりうなずかずにはいられません。
但し、この事態がそのような風潮に対する「罰」であるとか、そのようなたぐいの話ではなく、ここで人類全体が目覚め、命の大切さや、物の大切さ、周りを思いやる気持ちなど、そういった方向へ舵を取り直せる絶好の機会を、神仏や御霊の世界からいただいたとみるべきでしょう。
私はこの稿の冒頭に、世界中が臨戦態勢のようだと表現しましたが、先の大戦は文字通り、人と人とが争い、血を流し、憎み合っていた悲しい出来事でした。
ところが今回は、世界中すべての人類が、まるで見えない「敵」と戦っているようです。そうであるならば、ここで人々が一つとなり、お互いに助け合い、励まし合い、一日でも早くこの事態を収める方策を生み出すべく、同心協力していこうという機会とする以外、何ものでもあるはずがありません。
しかし残念なことに、あらぬ虚言を信じて、自分だけが良ければと物品の買い占めに走ったり、過度な恐れによる妄言、あるいは極端な行動制限で他人を非難したり、挙げ句は当事者として今の政局を見守るのではなく、まるで全てが政治の責任であるかのように否定の言葉を投げつけたりと、そのような言動を見るにつれ、いまだ人類は学びの途上にいるのだと痛感せざるを得ません。
このような時こそ、私ども信仰者は毅然と、日々の生活でできる限りの対策を施しつつ、もちろん意見や窮状を訴えることは大切ですが、それ以外は淡々と自身の務めを果たしていくことが肝要であると存じます。
私はある意味、様々な場面で制約がかかったこの状況を、とても良い機会であると思っているのです。それは先のリーディングにもありましたように、すべてを一度、見直しなさいというメッセージとして捉えるということです。
果たして今行なっていること、やろうとしていることは、本当に必要なことなのか。もしかしたら、もうやるべきことではないことに汲々としていたのではないか。もっと他に大切で、本質的なことがあるのではないか――そういった観点で自身や周りの生活を見直す、まさに千載一遇のチャンスであると思うのです。
そして何よりこの時期、最も大切にしていただきたいのが、日々のご家庭での祈りです。
私たち在家の信仰者にとっては、ご家庭の神前・仏前こそが道場であり聖地です。外出がかなわないのであれば、むしろそのような時こそご家庭の神前・仏前を整え、清め、それぞれの祈りを深める良き機会とするべきでしょう。
そして、日々の生活の中で物資に足りないところがあれば、むしろそのありがたさを感じ、感謝の念が至らなかった自身を神仏の前で悔い改め、その足りない中での生活を工夫し、助け合い、この事態を共に乗り切っていこうという姿勢を現わしていくのが、真の信仰者であり、真行そのものであると思うのです。
令和という新たな時代の始まりにおいて、このような機会をいただけたことに、感謝の思いを抱きましょう。私たちに大きな気付きをいただけたことに、あらためて想いを馳せましょう。
もちろん亡くなられた方々のご冥福や、病気で苦しんでいる方の平癒を祈ることは第一です。このような状況下で生活や仕事に多大な困難を抱えていらっしゃる方への思いやりや支援、またこの間、不眠不休で事態を収束しようと奮闘していらっしゃる行政・医療機関の方々への協力など、目に見える世界での行動も大切です。
その上で、私ども信仰者は、決して悲観的にならず、むしろ今の状況を真実の目で見つめ、活き活きと生きる姿を周りへとお伝えすることが、今の自分に与えられた使命であるということに深く想いを致し、共に励んで参りましょう。
大切なのは今、この時です。
かむながらのみちとは、神仏と共に歩む道です。
神仏の意図するところを深く汲み取り、神仏が願う世界をみずからの手で実現していく道です。
日々の祈りをどうか大切に、ますます精進して参りましょう。