節分も過ぎ、暦の上でも新たな年明けを迎えることとなりました。
横浜本部道場・成就院におきましては、例年通り二月三日に星供護摩法要、節分祭、豆まきが行なわれ、また翌日・立春の日には身曾岐神社において祈年祭と、多くの方たちと共に新たな節目を迎える祭事が執り行なわれます。
皆様ご周知のように、今年は大きな時代の転換点となります。そのような年明けを迎えるにあたり、新たな気を神仏からいただけることの尊さ、歓びを、私自身深くかみしめております。本部並びに各会場では、一月五日の月例祭より「平成時代における 天の災い 地の災い 人の災い」一切の祓い清め、並びに災害の犠牲となられた御霊の鎮魂成仏を願う祈りを捧げる行に入らせていただいております。
会員の皆様におかれましては、この平成という時代の総括と、新たな時代の到来を迎える心根をしっかりと据えるため、本年は一度でも多く本部並びに各会場へと足を運ばれ、それぞれの祈りを深めていただきたく存じます。
何事においてもそうですが、このような大きな変革が訪れる際、大切なことは物事の発祥、原点に立ち返ることです。皆様のお仕事、家庭、地域社会においても、それぞれこれまでの歩みと、そして新たな展望を描かれていることと思いますが、このみ教えについて言及すれば、やはりその原点は道祖が遺された想いでありお言葉です。
そこでこの誌上において私は、いくつか道祖のみ教えの根幹とも言える内容について、何度かひもといていく機会を持ちたいと思います。そして今回は「最高道徳」という一節について見ていきます。
道徳に三道徳あります。
不道徳 一、努力せず 要求す
普通道徳 二、努力して 要求す
最高道徳 三、努力して 要求せず
自然の恵を待つのが最高道徳であります。
長年、このみ教えを学ばれた方にとっては、もう何度も耳にしたことと思いますが、最近このみ教えにご縁を持たれた方には、何よりも強く胸に刻み込んでいただきたいお言葉の一つです。特に「不道徳 努力せず 要求す」という風潮がはびこってしまっている昨今、これは会員の皆様ばかりでなく、日本中の全ての人々に向かって投げかけたいお言葉でもあるのです。
人間は余りに勝手過ぎます。人間は余りに神に対して、平気で勝手な願いを掛け過ぎる。それは明らかに要求を意味します。努力せずして要求ばかりする人間は、神に向かって迄要求します。而も神は人間に対して何一つ頼み、何一つ要求されたか、最も努力して何一つ要求せざる神は、実に最高道徳の実行者である。それに比ぶれば人間は冷や汗が出ます。
「与えて求めぬ太陽の心」というお言葉もございますが、道祖はこの神、太陽、あるいは天地自然を見よと。自分からは何も求めず、ただ黙ってみずからの務めを淡々と果たし続ける姿勢をよしとされました。
逆に、いくら表面的に熱心に祈っていたり、仕事や奉仕に精を出していても、その一方で常に見返りを求めてやまない、さもしい心根を道祖は何よりもお嫌いになりました。
昭和十九年のこと、つまり大東亜戦争も三年が経ち、いよいよ戦況も厳しく物資も乏しいなか、ある会員が道祖に食べていただこうと、当時なかなか手に入らなかった羊羹や鰹節やタバコをお土産として持っていかれたそうです。
「先生のお好きなものばかりだから、きっとお喜びいただけるだろう」と、その方は得意満面で差し上げたのですが、道祖は受け取ると、すぐに「さあ、みんなおあがりなさい」と、その品々を周りの方々に分け与えてしまったそうです。
持ってきた会員は、あっけにとられ、しばらく何とも言えない気持ちで黙ったまま座っていました。すると道祖は「~君、大変おいしい羊羹だね」とおっしゃられたそうです。
「ご自身が食べてもいないのに……」と、その方は何か寂しいというか、腹立たしい気持ちで一杯になったのですが、その時、はっと自己の卑しい心――道祖の好物を持っていくことで、道祖の関心を惹(ひ)きたい、良く思われたいという気持ちが先にあったことに気づき、一方で道祖が他の喜びを我が喜びとされているお姿に心を打たれ、自己の至らなさを悟らせていただいたという逸話が残っております。
道祖はよく、お商売をする人に「あまり、そろばんははじくなよ。真剣にやっていれば、必ず必要なものは与えられるんだ」「無所得の所得」と説かれていましたが、そのお言葉の通り、目先の損得に一喜一憂することなく、道祖のご指導に従い世のため人のためにと尽された方には、不思議と後に大きな利益がもたらされたとのことです。
今の時代は――もちろん「努力せず、要求す」は論外ですが、「努力して、要求する」ことが当たり前。何事もギブ・アンド・テイクだからということを、主張しない人が馬鹿を見る、という世の中になってしまっているようですが、その生き方では到底、「幸せ」になどなれません。
「努力して、要求す」と「努力して、要求せず」、一見その「努力」は同じように見えますが、方向は真逆です。「努力して、要求す」る、その努力は、あくまで自分の方を向いています。自分が何かを得るために、何かをしますと、いわば取り引きです。
一方、「努力して、要求せず」は、あくまで他者本位です。そこに自分はありません。人様、地域、世の中、何より神仏が何を求めていらっしゃるのか。常にそのことを本位に置いて、この身をお使いいただくという姿勢です。
このようなことをお伝えすると、最近では「それでは何でも他人の言う通りに生きていけばいいのでしょうか」と、そのような誤解をされることもしばしばあるのですが、決してそうではありません。
他者本位の「他者」とは、あくまでその方の心の奥底であり、魂のことです。目の前のその方が心の奥底から、つまりその方の魂が求めているものは何なのか――常にそのことを察していくのです。
そうすれば、単に表面的な態度に振り回されることなく、時には厳しい態度で接し、嫌われることもあるでしょう。ですが、何よりその方が本当に求めているものは何か、そのことを常に祈り、想い続け、行ない続け、努力し続けることで、いつしかお互いにとって真に豊かな結果を手にすることが叶うのです。
何より「努力して、要求せず」という生き方そのものを決めるのは、他ならぬ自分自身なのです。
では、その方の魂が求めているものを、どうやって察することができるのか。それが祈りです。「祈れば、分かる」――この言葉に尽きます。
試みに功利打算を離れ全身全霊を以て、靡き来る唯一人の対手を獲得して見るがよい。唯一人を導き得ざるものは絶対に多数を導き得るものではない。
真に相手の人を思い、家族を思い、職場の人たちを思い、お客様、地域、国、世界のことを思う、その真心で神仏に向かえば、必ずや神仏からの感応をいただくことができます。これが信仰の妙味です。そうやって神仏との交流世活を続けていくことで、自己の幸せはもちろん、家族や周りの方々と共に幸せになれる道を歩んでいくことができる。これこそが、かむながらのみちです。
かむながらのみちとは、自他共に救われていく道なのです。
先月の感謝日において、ある会場主の方から「このみ教えを、世の多くの人々が待ち望んでいます」という、強い確信に満ちたお話がありました。私はそれを聞いて、心から嬉しく思うと同時に、身が引き締まる思いを感じました。
世の人々が待ち望んでいるのは、決して単なる祈りの施設とか、尊い教えが書かれた本とか、そういったものではなく、私自身、そして会員お一人お一人の幸せに満ちあふれた生き方そのものに他なりません。私たちの日々の立ち居振る舞い、生きる姿勢、言葉遣い一つ一つに「幸せ」を感じられるかどうか、そのことを世の人々は見ているのです。そして、そのことが真に実感できた時、初めて人は「共に歩んでみよう」という思いが湧いてくるのです。
私は常に、「皆様自身がまずお幸せになること、そうすれば人は必ずついてきますよ」とお伝えしておりますのは、まさにこのことです。
もちろん、お金を稼ぐ、地位や名誉を得る、人から認められる、そのようなことも大事ですが、何より大切なことは、自分自身がこのみ教えのなかで人として成長できているか、その手応え、その実感です。その根底を支えるのが、実に「最高道徳 努力して、要求せず」という生き方なのです。
幸せであることは、不幸であることよりも何倍も努力がいる――私がいつも皆様にお伝えしているこの言葉の真意を、どうか深く悟られてほしいのです。
私たちの、この二十年の歩みが、いつしか多くの方のお幸せへと広がっていく大きな動きとなってまいりました。そして、ここからです。まずは、お一人お一人が、この道を歩んでいる幸せをかみしめてまいりましょう。
春は、もうすぐそこまで来ています。新しい命の巡りを実感すると共に、さらなる精進を共に誓わせていただきましょう。