会長からのメッセージ

命を尊ぶ感性

4月は聖地巡拝の月です。

伊勢神宮、そして京都・醍醐寺、御寺泉涌寺(みてらせんにゅうじ)への参拝をさせていただきますが、今年は4年ぶりに奈良・橿原神宮への参拝も挙行致します。

実は昨年の聖地巡拝において帰路の車中、私の脳裏にふと「来年は何としても橿原に行かなくては」という思いが沸々と湧き上がりました。そこに明確な理由はありません。しかし、その思いを形にすべく計画を練っていたところに、安倍元首相の惨劇の報がもたらされたのです。

それを偶然と一言で済ませるには、あまりに符号が合い過ぎることは、昨年来の講演会等で再三、皆様にお伝えして来た通りです。また、これは私事に属することではありますが、私の甥であり吉山本部長の長男である吉山慎太郎君がまさに今、その橿原神宮に奉職し日々研鑽を積ませていただいていることも付言致します。

そのような意味で今回の聖地巡拝は、私どもの会が神仏より託された重大な責務を果たす特別な機会であるといっても過言ではありません。参加される会員諸士は今一度、身と心を引き締め、この国のため、世界のため身を捧げるような気持ちでこの巡拝に臨んでいただきたい。また、今回残念ながら参加することが叶わなかった全国会員も、この巡拝期間中は各々の神仏前において、共に祈りを捧げる姿勢で過ごされることを切に望む次第です。

道祖解脱金剛尊者は聖地巡拝に出向かれる一団をお見送りした後も、道場の神前で一心に祈りを捧げられたと伺っております。そのようなお心を胸に、今回の聖地巡拝は文字通り全国会員一丸となって執行して参りましょう。

要(よう)するに神(かみ)と人(ひと)との交流世活(こうりゅうせいかつ)を謂(い)う。俗(ぞく)に信神(しんじん)というも神人合一(しんじんごういつ)というも此(こ)の謂(いわれ)に他(ほか)ならぬ。常(つね)に神仏(しんぶつ)を信仰(しんこう)し、其(そ)の恵(めぐ)みと導(みちび)きとによって現実生活(げんじつせいかつ)を律(りっ)せんとするもので、個人(こじん)の日常生活(にちじょうせいかつ)から天下国家(てんかこっか)の経綸(けいりん)に至(いた)るまで、神意(しんい)を奉体(ほうたい)し神慮(しんりょ)に逸脱(いつだつ)せざらんことを期(き)すものである。

(『真行』「神人世活の意義」より)

さて、道祖の『真行』の解説として、先月は最初の一節「宗教という言葉は不徹底」というお言葉に込められた道祖の想いと、その歴史的背景についてふれました。今週はその続きとなる箇所、特に冒頭の「神と人との交流世活」「神人合一」というお言葉に着目してみたいと思います。

神仏というと、今のこの私たちとは遠く離れた存在。偉大で畏れ多く、ひたすら敬い尊ぶべきもの、というイメージがあります。もちろんそれはそれで間違いではないのですが、この感覚は本来の日本人の神仏に対するものとは若干異なっていることを私たちは知る必要があります。

前回もお伝えしましたが、日本人は八百万(やおよろず)の神々―― あらゆるものに命の存在を感じ、それらを神として尊び敬う、という感性を根本とした信仰を何千年にもわたって維持してきました。

もちろんその意味では、私を含むあらゆる人たちも神であり仏であり、尊び敬われる存在であることに違いはありません。ただ私たち人間は、悲しいかな先祖や自分自身の行なってきたことの積み重ねにより「穢れ」というものを身にまとってしまい、本来の自分自身の中にある神性というものを発揮できない。そのため、祓い清めによって、本来の自分自身、すなわち神としての自分を取り戻す必要がある。それが「祭り」であり、神様と「間(ま)」を釣り合わせるということです。

このような信仰形態を表わす「神人合一」という言葉自体は、それほど古いものではありませんが、その基礎となる「神と人とは本来一つ」という思想自体は、日本人の中に古来より根付いていたものです。

ですから、平安初期に弘法大師空海が「即身成仏(そくしんじょうぶつ)」を目指す密教の法を中国からもたらしましたが、「この身のまま、生きたまま仏になる」という思想は、日本人にとってそれほど違和感のあるものではなかったのです。

道祖解脱金剛尊者も、その系譜を受け継ぎ次のようなお言葉を数多く残されています。

生(い)きて成仏(じょうぶつ)の出来(でき)ない人間(にんげん)に、死(し)して成仏(じょうぶつ)の出来(でき)よう筈(はず)はない。
大日如来(だいにちにょらい)を拝(おが)むならば、大日如来(だいにちにょらい)になるべきです。なりたいために拝(おが)む如来(にょらい)で、なりたくなさに拝(おが)む如来(にょらい)ならば、拝(おが)む姿(すがた)は虚栄(きょえい)である、お体裁(ていさい)である、仮面(かめん)であります。

私は過日、昨年我が国で小中高校生の自殺者が過去最多であったとの報道に接しました。前途ある若者がみずから命を絶つという出来事に深い悼(いた)みを感じると共に、そのような社会に明るい未来は決してないという思いです。

その自殺の理由として「学業不振」「進路・入試に対する悩み」が半数近くを占めているとのことですが、その根底には将来そのものへの不安があるように、私には思われてなりません。

私が子供時代を過ごした日本は、まさに高度経済成長の時代。未来はバラ色。明日への不安などどこにも無いような勢いで、ただひたすら前を向いて走り続けていました。

一方、今の若者はことあるごとに「このままでは地球は終わる」「社会が立ち行かなくなる」というメッセージをひたすら浴び続け、悲観的な未来を描くことがむしろ前提となっています。

もちろん「事実」を見据えることは大事です。が、その事実を見据えた上で、その悲観的な結末から如何に脱却し、未来を真に明るいものとして描ける社会に至る道筋を示すところまでが大人たる者の責務でありましょう。その責任を果たさずに、ただ闇雲に不安をあおるのは、「無責任」というものです。そのような根無し草の発言が、あまりに今の世の中に蔓延し過ぎています。

では、なぜそのような風潮になってきているのか。それは、みずからの命に、生き方に確信が無いからです。この命の奥底にある「神性」「仏性」とよばれるもの、神仏からいただいた尊い命の本質に目覚めるという感覚から、あまりにも現代人が遠ざかってきているからです。

お互いの命を神仏からの賜り物として尊ぶ。それは人だけではなく、動植物に限らず、木火土金水といった五行に象徴される天地自然万物、あらゆるものに命の存在を感じ、その命といかに共生していくかという、人類が本来、何万年にもわたって培ってきた感性をことごとく捨て去ってきたから、若い世代に対し夢も希望も語れない無責任な大人が横行することになってしまったのです。

では、その悲観的な未来を変えていく根本的な道筋とは何か。それが、先ほどからお伝えしている、すべての命に対する畏敬の念をもった祈りです。

自分も含めたあらゆる存在に神性、仏性、かけがえのない命のはたらきを感じ、尊び、そして共に生きていく感性を養うことです。

かむながらのみちとは、日本人が本来持っていた、この命に対する感性を呼び覚まし、それぞれが神仏と一体となり、生きていくための道です。

この祈りが基盤となって、はじめて様々な政策や技術開発やライフスタイルの変革が活きる、地に足のついたものとなるのです。

道祖がこの『真行』でお伝えしようとされている「神と人との交流世活」とは、何も奇をてらった呪術のような世界を意味しているのでは全くありません。それは本来、私たちがこの大地に足をつけ、人々や自然と共生し、妬(ねた)むことなく、嫉(そね)むことなく、争うことなく、この人生を真の意味で朗らかに、前を向いて歩くことのできる道へと立ち戻る方向を指し示していただいているだけなのです。

各家の神仏前を整え、家族そろって祈りを捧げ、地域の氏神様を尊び、ご先祖様のお墓を大切にし、それぞれが与えられた仕事・使命に邁進する―― それこそが「神と人との交流世活」に他なりません。

そしてさらに道祖は、真に人々が神仏と一体となるため、祈りと同様、日々の生活において悟る生き方を大切にされました。それが「世活」というお言葉で表わされているものです。

次回は、この「世活」、すなわち家庭や職場の中で悟りを深める生活行(せいかつぎょう)、「在家宗教」という観点からお話をさせていただきます。

(つづく)

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