先月16日、横浜本部・第二道場において、金剛山成就院開山20周年並びに新本堂開堂10周年記念法要厳修の運びを頂戴致しました。
当日は100名弱の方々にご参集いただきましたが、何より私が感動致しましたのが70名を超える得度受戒をされた会員の皆様による熱呪熱祷。その祈りは一朝一夕のものでなく、この20年間、共に研鑽し、共に育ててきた祈りの心と形の結晶であり、道祖・解脱金剛尊者の「天地宇宙(てんちうちゅう)の神魂霊(かみだま)は祈らるる所にしずまりましまして」という御言葉がまさに具現化されたことを実感致しました。
思えば立教当初は旧本部道場3階、十畳一間の小さな部屋を本堂と定め御本尊をお祀りしたところから始まり、醍醐本山より頂戴した法を私なりに整えていく中で、多くの人が集える祈りの場を設えることを発願し、私が住んでいた家屋を末寺とさせていただいたのが20年前のこと。
「金剛山成就院」という寺号の「金剛」というのは、もちろん道祖の御法名から。そして「成就」とはご教主の実母である亡き祖母・中村ふさえの戒名「成就院釋尼荘房(じょうじゅいんしゃくにそうぼう)」から頂戴しております。奇しくも今年で御生誕1250年を迎えられた宗祖弘法大師から、開山聖宝理源大師、道祖解脱金剛、そして岸田英山先生からご教主、私へと至る法の流れ、血の流れを受けたこの成就院が、今や多くの人たちの心の拠り所となり、世相善導・人心救済の祈りを発信する源となっていることに私は無量の感謝と感動の思いを新たにしたのです。
また私事ではありますが、長男であり副住職の亮成と、北九州・門司の大原山(だいげんざん)不動寺で日々励んでおります三男・大原成敬が共に今回の助法を務め上げてくれたことも、この祈りの心と形を次代へ継承するという意味合いにおいて、私にとっても感慨深いものがありました。
悳行実践(しんこうじっせん)
人(ひと)が誠心(せいしん)の境地(きょうち)に達(たっ)した時(とき)は、既(すで)に神気(しんき)に触(ふ)れたものということが出来(でき)る。況(ま)して非常(ひじょう)の苦難(くなん)に逢(あ)い人力(じんりょく)の足(た)らざるを痛感(つうかん)する時(とき)、或(あるい)は興亡死活(こうぼうしかつ)の岐路(きろ)に立(た)って万策(ばんさく)つきたる時等(ときなど)に於(おい)ては、所謂(いわゆる)人智(じんち)を尽(つく)して天命(てんめい)を俟(ま)つとか、苦(くる)しい時(とき)の神頼(かみだの)みなどという消極的(しょうきょくてき)な態度(たいど)であるにせよ、往々(おうおう)にして神(かみ)を意識(いしき)するに至(いた)らしめるものである。更(さら)に社会(しゃかい)に於(おい)ては屡々(しばしば)人智(じんち)に絶(ぜっ)した奇蹟的事実(きせきてきじじつ)や神秘的現象(しんぴてきげんしょう)に接(せっ)して、之(これ)が所謂(いわゆる)神護仏縁(しんごぶつえん)というべきものかと考(かんが)えさせられることもある。又(また)幾多(いくた)実社会(じっしゃかい)に於(お)ける怪奇(かいき)なる霊的現象(れいてきげんしょう)にすら遭遇(そうぐう)して驚愕(きょうがく)することもないではない。之等(これら)、何(いず)れも人智(じんち)や常識(じょうしき)を絶(ぜっ)する、神秘(しんぴ)、不可思議(ふかしぎ)ともいうべきもので、此(こ)の経験(けいけん)を得(う)ることは要(よう)するに心眼(しんがん)を刺激(しげき)し神(かみ)を知(し)る機縁(きえん)、信仰(しんこう)に入(い)る第一歩(だいいっぽ)たらしむるものである。
然(しか)し乍(なが)ら飽(あ)くまでも自力(じりょく)に依存(いぞん)し、傲岸不遜(ごうがんふそん)なるもの、或(あるい)は神経(しんけい)の鈍(にぶ)く冷淡無頓着(れいたんむとんちゃく)のもの等(など)は猶予(ゆうよ)なきものというべく、永久(えいきゅう)に霊盲者(れいもうしゃ)として自信(じしん)なき迷(まよ)いの世界(せかい)に彷徨(ほうこう)するか、或(あるい)は危険乱暴(きけんらんぼう)なる行路(こうろ)を進(すす)まねばならぬこととなる。
人(ひと)はせめて世(よ)の変革(へんかく)の様(よう)な非常重大(ひじょうじゅうだい)の時機(じき)に魂(たましい)の覚醒(かくせい)を得(え)ねば遂(つい)に其(そ)の機(き)を永久(えいきゅう)に逸(いっ)するに至(いた)るであろう。
さて、本年は皆様と共に道祖の『真行』を拝読しておりますが、こちらは第二節にあたります「悳行実践」の冒頭部分です。特に「人はせめて~」の箇所は、ここ数年のコロナ禍において様々な場面で引かせていただいた一節ですので、耳になじみのあるところでもありましょう。
私どもかむながらのみちの信仰は在家宗教であると、日頃から様々な形で皆様にお伝えしておりますが、実はこの「在家宗教」という言葉は、あまり世間で流布されているものではないことも、この機会に知っていただくとよいかと思います。
もともと「在家」という言葉はあります。これは「出家」に対するもので、仏教の世界では出家者たる僧侶のお世話をしたり、金銭的な援助をすることでその功徳を頂戴するという立場として「在家」と言われます。
しかし、あくまでもこの「在家/出家」は出家が主であり、出家という形は取らずとも、熱心に信仰を学び、その教えを奉じて生きる奇特な人たちという意味で「在家仏教」「在家信者」などと言われることがあります。
ですが、道祖はあえて「在家宗教」というお言葉で、「在家にこそ信仰の真髄がある」と喝破されたのです。私どもの会では当たり前のように「在家宗教」という言葉を使っていますが、これは実に革命ともよぶべき価値観の転換であることを、皆様には、この機会によく知っておいていただきたいのです。
家庭(かてい)に生(い)きる宗教(しゅうきょう)之(こ)れが真正(しんせい)の宗教(しゅうきょう)である。寺院(じいん)や教会堂(きょうかいどう)にのみあると考(かんが)え尚(なお)今日迄(こんにちまで)そうであると思(おも)い込(こ)んで居(い)る人(ひと)も少(すく)なくないとは実(じつ)に驚(おどろ)く外(ほか)なし。
古来(いにしえより)の信者(しんじゃ)は大抵(たいてい)祖先以来(そせんいらい)の遺伝的信仰者(いでんてきしんこうしゃ)であって全(まった)く真正(しんせい)の信者(しんじゃ)ではないのである。真(しん)の宗教(しゅうきょう)の目標(もくひょう)が違(ちが)っておる事(こと)を自覚(じかく)せねばならぬ。
道祖はこのような厳しいお言葉で、あえて誤解を恐れず「真の信仰者とは」と再三再四、当時の人々に語りかけました。もろちんそれが物議を醸し、時には命を狙われるような危険な事も度々あったと伺っております。
それでも道祖が確固たる不動の信念をもってこのことを語り続けてこられたのは、本来日本には道祖のおっしゃる「在家宗教」の根幹が脈々と受け継がれてきた信仰形態があったからです。それが修験道です。
修験道とは、日本古来の山岳信仰に神道や外来の仏教、道教、陰陽道(おんようどう)などがあわさって成立した日本固有の民族宗教です。特に修験道は我が国において長きにわたり一般民衆の信仰の主たる担い手でありつづけたところに、その特色があります。
修験道の修験道たるゆえんは、大乗仏教の基本理念とされる「上求菩提(じょうぐぼだい)、下化衆生(げけしゅじょう)」、つまり「おのれの悟りを求めることと、人々を救済することは一つである」という文言に尽きます。
修験道とは、修行して「験(げん)」を獲得する道という意味。「験」とは「験力(げんりき)」のこと、超自然的な力、霊力といってもかまいません。この修験道にいそしむ者を修験者といいます。主に山中で修行するので「山に伏す者」というところから「山伏」とも呼ばれます。
修験道の開祖は役行者(えんのぎょうじゃ)(神変大菩薩(じんべんだいぼさつ)・?~702)とされます。ただ、この人物にまつわる史実は少なく、主に民間に残された伝承によると、役行者は賀茂(かも)一族の出。賀茂氏は今の京都にあたる一帯を領し代々神道の祈りを継承していた一族です。
その末裔(まつえい)として神事を究められた後、行者は飛鳥(あすか)の法興寺(ほうこうじ)(本元興寺(ほんがんごうじ))で仏教を学び、在家の仏教信者を意味する優婆塞(うばそく)となって葛城山(かつらぎさん)で修行、さらに熊野と大峰(おおみね)(吉野)で研鑽を重ね、ついに吉野の金峯山上(きんぷせんじょう)で修験道の本尊・蔵王権現(ざおうごんげん)を感得したと伝えられます。修験道が神仏両道を根幹とし、様々な教え・行法を取り入れているのは、このような由来があるのです。
そもそも日本仏教は、平安初期に活躍した空海と最澄の二人によって築かれました。が、この両者ともに高野山と比叡山という山岳を拠点にした事実は注目されます。
また飛鳥の法隆寺、奈良の興福寺や薬師寺は奈良修験の拠点寺院でした。道元が開創した曹洞宗の大本山永平寺には、修験者がさかんに出入りしていました。日蓮宗の修法や修行のなかには江戸時代の修験道の影響が見られます。臨済宗にも、修験道と関係する寺院が存在します。
日本の多くの仏教者にとって、山岳は修行の場として不可欠の存在でした。いいかえれば、日本の仏教信仰の基調は山岳にあり、真言宗の醍醐寺、天台宗の園城寺(おんじょうじ)(三井寺)、聖護院などは、修験道の拠点として傑出した修験者をあまた生みだしています。
その典型が醍醐寺の開山となった聖宝理源大師です。聖宝は空海伝来の真言密教の法燈を継ぐとともに、役行者に私淑(ししゅく)して吉野山における修行を再興し、のちに当山派修験の祖とたたえられます。
ちなみに江戸時代の修験道は、幕府の宗教統制策を受けて、真言系の当山派と、天台宗の本山派の2つに統合されましたが、実際に存在した修験者は最末期で17万人いたという説もあります。これは明治維新直前の僧侶の約半数に及びます。
明治新政府は1200年以上もつづいてきた神と仏の習合状態を分離させ、その結果、多くの寺院が壊滅的な打撃を受けました。さらに明治5年(1872)、修験道廃止令が発布され、徹底的な弾圧が加えられました。なぜなら、日本の数ある宗教のなかで、神と仏がもっとも親密に結びついてきたのが、ほかならぬ修験道だったからです。
修験道廃止令は明治29年に撤回されましたが、その打撃は大きく、今ようやく修験復活の機運が全国的に見られると言ってよいでしょう。
修験道は、天地自然と調和し、自然に対し畏敬の念をもって接することを根本精神としています。また「入りて学び、出でて行なう」――山に入って験力を得て、その力をもって民衆救済にいそしむという修験道の基本姿勢。これこそが、私どもかむながらのみちに流れる根幹、スピリットであると言っても過言ではありません。
道祖はこの醍醐三宝院に伝わる修験の教えを学び、またご自身でも様々な霊山で修行を重ねる中で、「解脱とは畳の上の十界修行」であると喝破されました。
十界修行とは修験者が山の上で行なう修行を体系化したもの。地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天界の六道、そして声聞・縁覚・菩薩・仏に至る四聖、この十界に見立てた修行法が修験の世界にあります。それを「生活の上で行なえ」と道祖はおっしゃられたのです。
先の『真行』のお言葉にありました「非常の苦難に逢い人力の足らざるを痛感する時、或は興亡死活の岐路に立って万策つきたる時等に於ては、所謂人智を尽して天命を俟つとか、苦しい時の神頼みなどという消極的な態度であるにせよ、往々にして神を意識するに至らしめるものである」というお言葉や、「人はせめて世の変革の様な非常重大の時機に魂の覚醒を得ねば遂に其の機を永久に逸するに至るであろう」というお言葉の背景には、まさにこのような日々の仕事、家庭における出来事から学び、それを修行とせよという道祖のお心、「在家宗教」の根本精神があったのです。
では、この在家宗教の根幹である「生活行」を進めていく上において、どのようなことを拠り所にしていけばよいのか、そのポイントについて次回は見ていくことになります。
また、私が6月に実施したアメリカへの旅について、同行していただいた吾妻麻美子さんから体験記を頂戴しておりますので今号に掲載させていただきました。次号には私からもあらためてこの旅の意味と意義、そしてこれからのかむながらのみちについての新たなビジョンを皆様と分かち合いたいと存じます。