教主からのメッセージ

感謝という選択

秋の稔りの感謝祭、まことにおめでとうございます。

この感謝祭の時節を迎えるたびに、私はしみじみと「恵み」ということの有難さを思わずにはいられません。

神様は、自分たちが当たり前に生きているのではない、生かされているという事実を思い起こさせるため、この秋というさわやかな季節に、多くの稔りを私たちにもたらしてくださっているのだと思います。そう思う時、「感謝」という言葉が、これほどふさわしい時はないのではないでしょうか。

さて、東京オリンピック・パラリンピックが終わると共に、第五波が猛威を振るいましたが、秋の深まりと共に感染者数は減少化の傾向を見せ、様々な場面で活動再開の動きが見られるようになりました。

今回の感染者数減少について、その理由が分からない、はっきりしないという声があるようです。それに対して、見える現実的な世界については、やはり今後の対策という観点から、識者の皆様には様々な科学的検討をしていただきたいと思います。

ですが、私たちが大切にしている見えない世界、神仏の世界という観点から見たならば、その理由はかなりはっきりしていると私には思われるのです。

すなわち、神仏からいただく私たち人類への課題が、次の段階へと移行したということです。

かむながらのみちの今年のテーマに、「浄化から昇華、昇華から聖化へ」という言葉があります。

浄化とは、文字通り浄めることです。これまで様々な欲得のままに、欲しい欲しいと奪ってばかりであった生き方をあらため、捨てること、手放すこと、整理すること、そして今あるものを洗い、磨き、浄めること。まさに「断捨離」です。

人は常に「作り出す」という行為によって、この世を生きていくことができます。しかし、その生産に向けるエネルギーがあまりに過剰になり、また余計なもの、不必要なもの、あるいは汚れたもの――それは物質も想念も含まれます、そういったものや思いを分不相応に作り出し過ぎて、みずからをも滅ぼしかねない事態を招いてしまった結果、神のお手入れにより「作らない」「動かない」「話さない」という時間をいただいたのが、今回のコロナウイルスによる自粛期間なのです。

ですが、いつまでも作らない、動かないままでは、人はやはり死に絶えてしまいます。そのため、ここからは本当に必要なもの、大切なものとは何かを常に意識しつつ、一つ一つを丁寧に、心を込め、有難く頂戴する。まさにあらゆるものを「恵み」として、感謝の心をすべての根幹として生きる、行動する、ものを作り出す、言葉を話すことが、人類の次の段階として強く、強く神仏から求められているのです。

それが「昇華」、そして「聖化」です。

自分を棄てて報恩感謝せよ、惜し気なく感謝せよ、勇敢に感謝せよ、一も感謝二も感謝、感謝報恩に奮い立つものに、幸福の訪れぬ理由はない、そこに微妙な神秘があります。

道祖のこのお言葉は、文字通り私たちを「はっと」奮い立たせるお言葉です。

感謝に生きるとは、決して単なる道徳的な心構えとか、気持ちの持ちようとか、そのような軽いものではなく、文字通り「自分を棄てて」行なうべき、人生の選択です。

感謝報恩に生きるという、強い決意と行動に支えられなければ、すぐに人は忘恩の徒と化し、不平不満だらけの人生へと真っ逆さまに落ちる。感謝報恩とは、感情の問題ではなく、きわめて強い「意志」の問題なのです。

私はかつて、北海道のある会員の方に対して、次のようなご指導をさせていただいたことがありました。

その方は、代々水稲農家を営んでおりましたが、米価がどんどん安くなる状勢の中、農業が立ち行かなくなり、文字通り金銭苦の中にいらっしゃいました。そんな時、ある自然栽培農法を教えている方とご縁をいただく機会があり、その方は一念発起し、自然農法の米作りを手がけてみましたが、それは苦労の連続でした。

その方がご指導をいただきたいと私の前にいらっしゃったので、私は次のようなことをお伝えしました。「すべては神様がお授けになったことです。お米も、自分が育てているのではない。神様が育ててくださっているのです。うぬぼれやおごりを捨て、大自然と神様への感謝の心を忘れずにやっていけば、きっと大丈夫ですよ」。

このご指導により、その方はこれまでのあり方、考え方をあらため、草取り、田植え、収穫といったどんな時でも、まず神仏にご挨拶をしてから作業を始める。いつでも神様からお預かりした田んぼだと思い、丁寧に、心を込めて作業をするようになったそうです。

そして、秋には見事な「恵み」をいただき、口コミで購買者も増えていき、最初はご夫婦二人で手がけていらっしゃいましたが、息子さんが共に農業をすることを決め、周りにも理解者が増え、いつのまにか豊かな人生の「稔り」を、今では手にしていらっしゃるのです。

今から振り返ってみると、本当に信仰をもとに常に真面目に努力してこられたからこそ、今の結果があると分かるのですが、実はこの方へのご指導で大切だったポイントは、米作りそのものではありませんでした。

これは『人生の転換点』という本に書かせていただいている体験談ですので、くわしくはそちらをご覧いただければと思いますが、この方は金銭苦・生活苦と同時に、ご子息のことでとても大きな悩みを抱えていらっしゃいました。まさにそれは地獄のような苦しみだったといっても過言ではない状況でした。

ただ、そのような苦しみの中にいらっしゃるからこそ、私はこの方が「恵み」の有難さ、すべては神様が育ててくださっているということ、感謝に生きるということについて、心の底からおわかりいただける、そしてその生き方を選択できると確信したのです。ですから、先のようなご指導をさせていただき、またその方も心底から自身のあり方を「転換」し、今の恵みを手にされているのだと思います。

私は、修法の石井さんを通してその方がいただいた神様のメッセージが、今でも忘れられません。

「人は皆、この母なる大地によって生かされています。今あなたがお米作りをしている田は、あなたのご先祖の血と汗と涙の結晶です。ですから『みんなにおいしいお米を食べさせてあげたい。ご先祖様、どうかお力をお貸しください』という心になって取り組むことです。そうすれば、そのお米一粒一粒に先祖の御霊(みたま)が入り、誰が作ったよりもおいしいものとなるはずです。作物を作らせていただける喜び、働かせていただける感謝、その心を決して忘れてはいけません――」

私はこのご神示は、今まさに世界中すべての人類に必要なメッセージだと思うのです。

今から私たち人類が歩み出すべき道は、これまでの活動の「再開」ではありません。改革であり、創造です。進化です。

そのための産みの苦しみは、まだまだ続くでしょう。むしろ、これからの模索期間の方が、これまでの自粛期間よりも、かえって長く、そして辛い時期かもしれません。そのくらいの覚悟をもって、このコロナウイルスとは対峙すべきです。

ですが、そのような中にあって、すべての人々の基盤となるもの。私たち信仰者はもちろん、全世界中の人々が気づき、目覚め、そして歩む羅針盤となるもの。それが「感謝」です。「感謝報恩に生きる」と決めることです。選択することです。

感謝に生きるというのは、軽々しく口にするほど決して生半可でやさしい生き方ではありません。他のせいにする、不平不満を並べ立てるほうが、実はどんなにか楽な生き方であるというのは、これまで何度も私がお伝えしてきたことです。

ですが、この感謝に生きるという、その生き方を定めた人たちにこそ、神仏、そしてご先祖様を始めとした見えない世界から、大いなる「恵み」がもたらされるのです。

大きく生きていきましょう。せっかくいただいたこの命です。小さなことに悩み、傷つき、立ち止まることも大切ですが、瞳はまっすぐにこれからの未来への広がりを見据えていきましょう。

祈りは、私たちの心を感謝へとつなぎとめる、大切な時間です。

どんなに現実の世界で気持ちが荒れ果てようと、私たちは祈りによって、心直し、育て直し、生まれ変わりの時を頂戴できます。

日々、祈りながら、現実の中で精一杯、自分自身を活かして参りましょう。

これから最も必要とされるのが、感謝に生きる人たちです。

私たち、かむながらのみちに生きる者たちです。

かむながらのみちとは、神と共に生きる道です。

この感謝の心を胸に、希望と確信と歓びに満ちた人生を歩む道です。

秋の恵みへの感謝の思いを十二分に、それぞれのご神前・ご仏前にあらためてご奉告申し上げ、そしてこの一年の残りの時間を、さらなる生活行の機会として共に精進して参りましょう。

最後に、道祖のお言葉を引いて、このめでたき感謝祭のご挨拶とさせていただきます。

神の心で神を祈れ、吾れ神と倶(とも)にあり。

-教主からのメッセージ

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