令和5年度感謝祭、洵におめでとうございます。
今年の感謝祭は、新本部道場建設工事に伴い、成就院本堂における神事・仏事の催行、参加人数も上限を設け1日のみの開催となりました。本来であれば全国各地から大勢の方に参集していただき、共に稔りの感謝のみ祭りをお慶び申し上げたいところではありますが、やむなき事情であることをご理解いただき、来年は新道場竣工祝賀の会と併せ盛大な感謝祭となることをお伝え致します。
さて、本年かむながらのみちのテーマである
「今の選択が未来を決める 天命の下に 自己覚醒 自己昇華 自己実現」
この言葉に沿った生き方を、会員諸士が生き切ってきたか、そのことを問い直す機会が、この感謝祭であります。お互い様に、しっかりと神仏のみ前において、ありのままの自己をさらけ出し、みずからに課せられた天命に思いを馳せていただきたく存じます。
世情はいまだ混沌としている一方、のど元過ぎれば熱さ忘れるとばかりに、人類のエゴ、欲望がむき出しになってきた感があります。もちろんそのような動きに「否(いな)」を唱え、新しい生き方、価値観を求める人々が、特に若い人たちに増えてきていることも、また事実です。
皆さまは様々な機縁により、このみ教えに導かれたことと思います。中でも人生苦、金銭苦、人間関係の悩み、家族の不和などから脱したい、解決の道を掴みたいと、藁にもすがる思いで訪ねて来られた方も決して少なくはありません。
そういった人生苦の解決は、確かに信仰の一つの側面ではあります。が、決して信仰の目的そのものではない。大切なのはご縁をいただいた後の生き方。そのご縁を尊び、随っていく。その生き方の中にこそ信仰の歩みがある。結果が出たら、それで終わりでは、いわゆる「ご利益信仰」以外の何ものでもありません。
咽喉元(のどもと)過(す)ぎれば熱(あつ)さを忘(わす)れ、苦(くる)しみ去(さ)れば感謝(かんしゃ)薄(うす)らぐ。感謝(かんしゃ)薄(うす)らげば再(ふたた)び元(もと)の煩悶苦悩(はんもんくのう)に戻(もど)る。
道祖のこのお言葉がダイレクトに私どもの胸に響きます。入口としては、人生苦から脱せられたことへの感謝。救われたことへの感謝。そこからさらに、この命そのものが与えられたことへの感謝。生かされていることへの感謝――
日々の祈りの中で、常にこの感謝、ありがたいという思いに立ち返り、だからこその報恩。お返しの行(ぎょう)。私どもの生きる目的は、返しても返しきれないほどの御恩に報いるためにあるのだと腹に落とし込む。その心で生きる者に、幸せは求めずとも与えられるのです。
日本人はよく「すみません」と頭を下げます。何も悪いことをしていないのに、何故謝るのかと批判する向きもあるようですが、「すみません」とは「済まない」ということ。私どもが天地自然よりいただいた宏大なる御恩へのお返しは、決して終わることがない、「済まない」ことへの自覚が「すみません」という一言にあります。まさに「報じても報じ難し」です。
そのような奥床しい日本人の魂を踏みにじり、目の前の欲得のみに走った結果が、今のこの国のあり方である。文字通り「感謝薄らいだ」この国に、再び「ありがたい」「すまない」という心を取り戻すのが、私どもの天命であり、そこから一人一人の使命も生まれるのです。
この感謝祭とは、各々がこのみ教えに導かれた機縁を再度、見直してみる機会でもあります。そして、感謝の思いをもう一度、自身の中に奮い立たせ、天命の下に生きる決意を新たにする。そこに初めて自己覚醒、自己昇華、自己実現という道行きが開けてくるのです。
そのような意味で最近、私自身が自己を見つめ直す時間をいただいたことも偶然とは思えません。9月2~3日、成就院としては10回目となる大峯入峰修行を挙行致しましたが、体調等、諸般の事情により初めて私は登拝を断念しました。
私の信仰の機縁は山そのものと言っても過言ではありません。醍醐の山、そしてこの大峯、立山等、すべては山での行が私の信仰を支えていました。「上求菩提(じょうぐぼだい)・下化衆生(げけしゅじょう)」「入りて学び、出でて行なう」という言葉を文字通り実践してきたのが私の信仰の歩みでしたから、今回の断念は私にとってまさに断腸の思いによる決断でした。
女人結界門(にょにんけっかいもん)で今回、20名を数える一行を見送った後、私は宿へ帰り、彼らが無事に行を成満し下山するのを、ただひたすら待つということをしました。思えば私の人生にとって、この「待つ」という体験はほとんどなく、常に前へ前へと先導を切って進み続けた63年間でした。
しかし、今回「諦める」という決断をしました。が、諦めるとは「明らめる」、明らかにする、現状を明らかに認める、ということでもあります。では、何が明らかになったのか。それは確実に自己の立ち位置が変わったということ。いつまでも先導を切って進むのではなく、後進に託す。彼らの背中を見守る。と同時に、心は、魂は常に彼らと一つとなり、ただひたすら祈り続ける――
そのような思いが私の中で確固とした信念として刻まれた1日でもありました。そして夕刻になり彼らを迎えに再度、女人結界門で待っていると、遠くから聞こえる法螺(ほら)と掛け念仏の声。そして一行が大峯山上におけるすべての行を成満し、朝とは全く違った清々しく、かつ生命力に満ちあふれた姿を見た時、私は「今回は、この学びをいただくための大峯だったのだ」と、感動と感謝に満ちあふれた思いで胸が一杯となったのです。
思えば、この感謝祭において平成25年より厳修しております『仁王護国般若波羅蜜多経法(にんのうごこくはんにゃはらみたきょうぼう)』。この仁王法(にんのうぼう)は810年、時の嵯峨(さが)天皇が朝廷内で起こった内紛により未曾有の国難に陥っている状況を救うべく、唐より帰国した弘法大師空海に鎮静の祈りをご依頼されたことに由来します。空海はこれを受け『仁王経法(にんのうきょうぼう)』を厳修、不眠不休で祈り込み、内紛を収め、世は平安を取り戻したと歴史にあります。
実に1400年の悠久の時を経て祈り継がれてきたこの大法も、思えば多くの先人たちが、次の代、次の代へと命をかけて伝承されてきた努力の結晶であります。私自身は祖山総本山醍醐寺において仲田順和(なかたじゅんな)御門跡猊下(ごもんぜきげいか)より、忝(かたじけな)くも御許しを賜って修しておりますが、そこに託された猊下の想いを、僭越ではありますが改めて深く胸に思い起こした次第です。
そして、これまで多くの職衆(しきしゅう)の方々が研鑽を重ねつつ、毎年共に熱呪熱祷(ねつじゅねっとう)を捧げ続けて参りました。そしてこの秋、新たな得度受戒をされる方が25名。着実に新しい世代の人たちが、この信仰の道を自身の天命と定め、歩み始めています。その時、私自身の取るべき道は――歓びと確信、そして湧き上がる感謝の想いを胸に、このみ祭りを会員諸士と共に祝いたいと存じます。
信仰(しんこう)の対象(たいしょう)は如何(いか)なる場合(ばあい)に於(おい)ても其(そ)の究極(きゅうきょく)は、天神地祇(てんじんちぎ)でなければならぬ。それは宇宙(うちゅう)の至高絶対(しこうぜったい)の神(かみ)であらせられるからである。所謂(いわゆる)宇宙(うちゅう)の大元霊(だいげんれい)と称(しょう)せられるものも、天神地祇(てんじんちぎ)に於(おい)て統一(とういつ)顕現(けんげん)せられている。従(したが)って天御中主神(あめのみなかぬしのかみ)とか其他(そのた)造化(ぞうか)の神等(かみなど)、彼(か)れこれと迷(まよ)う必要(ひつよう)はない。万神万霊(ばんしんばんれい)は悉(ことごと)く天神地祇(てんじんちぎ)に帰一(きいつ)しているのである。
全宇宙(ぜんうちゅう)を統制支配(とうせいしはい)する法則(ほうそく)も、生成発展(せいせいはってん)の原理(げんり)も原動力(げんどうりょく)も、威光(いこう)も慈愛(じあい)も一切(いっさい)は天神地祇(てんじんちぎ)の大御心(おおみごころ)の表(あらわ)れである。
普通一般(ふつういっぱん)の信仰(しんこう)の対象(たいしょう)となっている諸々(もろもろ)の神社(じんじゃ)其(そ)の他(た)に於(お)ける個々(ここ)の神格霊位(しんかくれいい)は、何(いず)れも神界(しんかい)に於(おい)ては、天神地祇(てんじんちぎ)の一統(いっとう)に帰属(きぞく)するものである故(ゆえ)に如何(いか)なる神社仏閣(じんじゃぶっかく)に参詣(さんけい)するも、或(あるい)は父祖(ふそ)の霊(れい)に対(たい)するも、帰(き)する所(ところ)はそれぞれの神格(しんかく)、霊位(れいい)を通(つう)じて、天神地祇(てんじんちぎ)にまつろうことになるのである。
さて、先々月より『真行』「悳行実践」を共に拝読しておりますが、実にこの箇所は『真行』の中でも特に難解な箇所であると言っても過言ではありません。
というのも、一見してわかるように「天神地祇」という神名が唐突に、かつ何らかの深い意味を持って語られているからです。
これまで本誌でも多くの道祖のお言葉を紹介してきましたが、このように「天神地祇」が全面的に取り扱われていたものはありません。尚かつ、これが神道の世界でいう「天神地祇」とは全く異なったものであることは言うまでもありません。
神道でいう「天神地祇」とは「天つ神・国つ神」のこと。その細かな解釈には諸説ありますが、総じて高天原におられる、あるいは天から下られた神々を「天つ神」、そしてこの地上に生れた神、もしくは天孫降臨の前からこの国におられた神々を「国つ神」と称し、その総称として「天神地祇」という名称がある、というのが通説のようです。
ところが、ここで道祖のおっしゃる「天神地祇」は、神々の総称でないことはもちろん、「宇宙の至高絶対の神」と明言されています。これは「八百万の神々」である神道の世界観からは絶対に受け入れられない考え方です。ということは……
これは、あくまで私の推察に過ぎません。道祖の真意をまことしやかに語ることは、浅学不才な私に出来ることではありませんが、ただこの御文章を虚心坦懐に拝読させていただくならば、「天神地祇」とは即ち宇宙の統一原理であり、いわば「法」そのもの。真言密教でいう「大日如来」に近い御存在を指していることは明らかです。
もう少し付言すれば、今日の私どもの感覚でいえば「ワンネス」、すべての存在の根源にあられる絶対的な存在、絶対にして唯一、かつどんなものも排斥しない、文字通り「一つ」である、顕界・幽界の根源、すべての統合原理としての「神」というふうに言えるのではないでしょうか。
正直、これは当時の「神道」には無い考え方です。そして、実は現代にも通じる根源的な信仰・真行の本筋を表わされています。なぜなら、すべての存在を統合し、あらゆるものは一つ、と同時に、それぞれの個性が尊重される、そのような総合的な信仰――それは信仰というより人類の希望、未来永劫につながる生き方そのものに他なりません。そのようなものが今ほど求められている時代は無いからです。
道祖は、そういった未来永劫に通じる「信仰」のあり方を、ここで提示されました。そして、あらゆる機縁を通じても、信仰は最終的にこのワンネス、すなわち「一つ」である神に到らなければならないと喝破されたのです。
これがどれほど革新的であり、かつ勇気の要る発言であったことか。そのことを思うと、私自身、その法脈の末端に連なる者として身の震える思いが致します。
では、その革新的な信仰・真行に生きるためには、どのようなことが必要になってくるのか。ここから真行世活の具体的なポイントを共に見ていくことになります。