会長からのメッセージ

神人合一

8月はお盆の月であり、終戦の月でもあります。成就院では14日の盂蘭盆会(うらぼんえ)供養、15日の怨親平等(おんしんびょうどう)大供養と、一連のご法要の中で見えない世界、見えない命に対する感謝と崇敬の念を形にして参ります。毎年申し上げておりますことですが、会員諸士には是非お子様方を連れてこられ、見えない命に支えられて今の自分たちがあることに思いを馳せ、次世代に継承する機会にしていただきたく、切に願う次第です。

さて、昨年4月、私がある方から清瀧大権現(せいりょうだいごんげん)の御神鏡をお預かりし、以来それを成就院本堂で仮祀りし、また上醍醐の清瀧宮本殿へとほぼ毎月足を運び、祈りを深めていったことは以前、本誌に書かせていただいた通りです。

その清瀧大権現を、醍醐寺の開祖である聖宝理源大師が感得された場所があるということを最近になって知り、私は先月の月参りの折、本山の職員の方のご案内でその地へと出向きました。

そこは上醍醐の開山堂からさらに山奥へ、途中に「龍の辻」といって、文字通り龍の背中をつたうような尾根道を通って進みます。伝承によると弘法大師空海が入滅されて約70年後、理源大師が醍醐山上で天女のごとき神が降臨するのに出会いました。その神女は「我は是れ娑掲羅龍王(しゃからりゅうおう)の王女であり、准胝(じゅんてい)観音・如意輪(にょいりん)観音の化身なり」と名乗られました。これこそ宗祖を慕いはるか中国から渡られてきた清瀧大権現であると悟られた理源大師は、醍醐の鎮守とされお祀りをされたと言います。

開山堂から歩くこと1時間半、ようやくたどり着いたその場所は、言葉では言い表わせないほどの神気というか、神霊の存在が実感できる聖地でした。そこでしばらく祈りを捧げると、この度お預かりした御鏡に魂が入っていくことが如実に実感されました。

もともとこの御神鏡は岡田戒玉(おかだかいぎょく)猊下が御開眼されたもの。そもそも道祖解脱金剛尊者が御逝去された折、当時の醍醐寺座主三宝院御門跡であられた岡田猊下が「解脱金剛」との諡号(しごう)を贈られ、葬儀の御導師を務められました。そのような意味で私どもにとってもまことにご法縁深き御神鏡に、はるか平安の世から続く真言密教の法の流れが一筋につながった感が、この人里離れた聖地において私の中でありありと感得されたのです。

神(かみ)の世界(せかい)に棲息(せいそく)する人間(にんげん)が神(かみ)の支配(しはい)を受(う)けぬ筈(はず)がない。全宇宙(ぜんうちゅう)に遍満(へんまん)する神(かみ)が一瞬(いっしゅん)と雖(いえど)も我(わ)れ等(ら)と離(はな)るべきものではない。

我(わ)れ常(つね)に神(かみ)と共(とも)に存(あ)り、我(わ)れは実(じつ)に神(かみ)によりて生(い)くるということは余(あま)りにも当然(とうぜん)のことである。我(わ)れ等(ら)は生(い)くるも死(し)ぬるも神(かみ)のまにまにである。否(いな)死(し)してもなお神(かみ)と共(とも)に存(あ)り、更(さら)に進(すす)んで我(わ)れ等(ら)も亦(また)神(かみ)たり得(う)るのである。

之(これ)は我等(われら)、自覚(じかく)するとせざるとを問(と)わず、宇宙(うちゅう)の法則(ほうそく)とも謂(い)うべきものであろう。就中(なかんずく)我等(われら)の祖先(そせん)は霊界(れいかい)に於(おい)て常(つね)に此(こ)の法則(ほうそく)に従(したが)い道(みち)を誤(あやま)らざる如(ごと)く指導(しどう)せらるる立場(たちば)にあるものである。正(ただ)しき祖先(そせん)の霊(れい)は実(じつ)に神界(しんかい)と人界(じんかい)とを連結(れんけつ)する最(もっと)も直接(ちょくせつ)なる媒体(ばいたい)である。故(ゆえ)に我等(われら)は常(つね)に父祖(ふそ)の霊(れい)と共(とも)に在(あ)ることも事実(じじつ)であるが之(これ)は神(かみ)と共(とも)に在(あ)ることを知(し)るよりも更(さら)に容易(ようい)に自覚(じかく)せらるる所(ところ)である。

未(いま)だ神(かみ)と共(とも)に在(あ)ることを認知(にんち)し得(え)ざるものは先(ま)ず父祖(ふそ)の霊(れい)と共(とも)にあることを覚(さと)り、然(しか)る後(のち)その導(みちび)きによりて神(かみ)を知(し)るべきである。それは現実(げんじつ)に深(ふか)き印象(いんしょう)と思慕(しぼ)とを有(も)つ父祖(ふそ)の霊(れい)は何人(なんぴと)にも接(せっ)する機会(きかい)多(おお)く神霊(しんれい)の実在(じつざい)を信(しん)じ得(え)ないものでも、父祖(ふそ)の霊(れい)の存在(そんざい)は信(しん)ぜざるを得(え)ないものであるから之(これ)が神(かみ)を知(し)るに至(いた)る最高(さいこう)の道順(みちじゅん)である。

人(ひと)が父祖(ふそ)の霊(れい)を始(はじ)め、神(かみ)と共(とも)に在(あ)る自覚(じかく)を得(う)る時(とき)は、孤独(こどく)にして孤独(こどく)ならず、微小(びしょう)にして微小(びしょう)ならず、罪業(ざいごう)深(ふか)くして又(また)之(これ)を軽減(けいげん)し或(あるい)は消滅(しょうめつ)することが出来(でき)るのである。

人間(にんげん)の迷(まよ)いと苦悩(くのう)とは多(おお)く神(かみ)を知(し)らざる所(ところ)より生(しょう)ずる。神(かみ)と共(とも)に在(あ)るものは終(つい)に救(すく)われたるものである。

さて、皆様と読み進めてきました道祖の『真行』も、いよいよ残すところあと3節となって参りました。

今回は「神人合一」という標題のもと、「我れ等は生くるも死ぬるも神のまにまにである」「我れ等も亦神たり得るのである」「人間の迷いと苦悩とは多く神を知らざる所より生ずる」など、読む者の魂を揺さぶらずにはいられないお言葉が随所に見られる大切な箇所です。

ここで道祖のおっしゃられる通り、この宇宙すべてに神仏の遍満せざる所はないにもかかわらず、我々は往々にしてその存在を忘れ、妬み、争い、時には神仏より頂戴したこの命の奪い合いさえ引き起こす、実に愚かな存在であります。

しかし道祖は、そのような愚かな存在である私たちであっても、「父祖の霊」すなわち「親先祖」を「直接なる媒体」として、そこに思いを馳せるならば、必ずやその奥にある神仏の存在にまで至ることは可能であるとおっしゃられているのです。

確かに、私たちの命は当たり前に存在するのではなく、父母がいて、祖父母がいて、曾祖父母がいて……10代さかのぼれば2千人、13代で1万人、16代で10万人を超え、19代で100万人と、その無数の存在方のうち、誰1人欠けても今の自分という存在がこの世にいないことは明らかです。

しかもこうして代々さかのぼっていけば、当時の地球の人口など軽く超えてしまう。おかしいではないか……ではなく、最終的には人類すべてが文字通り「きょうだい」であり、大元の根っこの部分ではつながっている。その命の根本への畏敬の念を、古来人々は「神仏」という名で敬い、尊んできた。これは少し考えてみれば、誰でも分かることです。

しかし、このような自明の理を何とも思わず、またこういった人間にとって最も大切なことも教えられず、まるで自分一人でこの世に生まれてきたような顔をして、平気で人のものを奪い、さげすみ、傷つけ合う私たち。だからこそ道祖は「神人合一」の一言で、私どもが生きる根本姿勢を問うて下さっているのです。

ここで特に注目したいのは、「正しき祖先の霊は実に神界と人界とを連結する最も直接なる媒体である」という中の「正しき」に込められた意味です。

親先祖の霊といっても、すべてが安らかな状態にあるわけではなく、多くはその生前の業、カルマによって苦しんでおられることもまた事実です。そのお苦しみを少しでも軽減すべく、私どもが日夜あげ続ける祝詞、心経、また折々の「お祭り」により、御霊を慰め鎮める。特にこの8月はお盆、終戦といった時節であり、より深く御霊とのつながりが実感される月でもあります。

そのような時、「正しき」法により、「正しき」念を持ち、「正しき」祈りを捧げることによって、祖先霊は霊格向上を果たし、苦悩する御霊から、私ども子孫をお救いされる御霊へと力を持つことができる。そのための祈りであることも、どうか常に忘れないでいただきたいのです。

また、今の自分自身や家族、身近な方々に迷い、苦悩があるならば、それは必ずや同じ迷いや苦悩にうち沈んでいる先祖がいらっしゃることも自明の理であります。だからこそ、その苦悩を祈りと学びによって昇華し、天命のもとに生きる道筋へと歩み出す。そのために私ども「かむながらのみち」はあるのです。

ご周知のように、今月末には新道場が完成し、いよいよ「新生かむながらのみち」はスタートします。今この機に、多くの人たちの人生が動きます。それは必然です。会の動きと会員の人生、そして世の中の動きはすべて一つだからです。

だからこそ、11月3日・4日の記念式典には、文字通り全国会員が残らず参集し、この新たなる門出を祝っていただきたい。それは何より自分自身の新たなる生誕を祝うことでもあるのです。

お互い様に、この神仏より授けられた尊き天命、使命を、誇りと熱意をもって果たしていきましょう。歓喜満ちあふれる心にこそ、必ずや神仏のご加護がめぐって参ります。

猛暑の中ではありますが、真行を歩む道筋を違えることなく、精進して参りましょう。

-会長からのメッセージ

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