解脱(げだつ)は自想(じそう)である。自想(じそう)であるから尊(とうと)いのだ。
今月は道祖・解脱金剛尊者がおっしゃる、この「自想」というお言葉について見ていきたいと存じます。
自想というのは道祖独特のお言葉で、おそらく元になったお言葉は密教の世界でいう「事(じ)相(そう)・教相(きょうそう)」のことだと思われます。
少し専門的な話になってしまいますが、事相とは密教の威儀や修法についてのことを言い、それに対する教相とは、その行法を支える理論的側面、いわゆる教学的な原理や説明のことを指します。
しかし、道祖はそれを「自想・教想」と字を改めた上で、次のように説かれたのです。
解脱の教えは自想である。かの開山祖師というがごとき一宗一派の流れが、往々末世の嘆きをうたわれるゆえんはまったく教想の罪というのほかはない。亜流は源泉を汲みちがって滔々大海に濁り落ちてゆく、その教えのあやまれるを拝してなお醒めざるは愚行である。しかも知識を誇る今世の人にしてかれの心頭は誤りの教想に合掌の礼をおしまないであろう。そこに真行体験の段階をふまぬいちじるしい間違いが生まれている。
このように道祖はご生前、世の宗教界に対して実に手厳しい言葉を投げかけてきました。しかしそれは決して他をおとしめ、自分だけが正しいと主張しているわけではなく、ただひたすら「世の宗教家よ、信仰の原点に立ち返れ!」という、その必死の叫びであったわけです。
ですから道祖は「信仰」と言わずに「真行(しんこう)」、真の行ないと常におっしゃられていたわけです。
旧来の信仰は文字の如く「信仰」仰ぎ信ぜよであるが故、「宗教」教えの宗、即ち先輩の為教示教想、心を相せる教えにあります。判断せられたし。
解脱の教えはこれに反して一切「自想」心を相せること自らである、「真行」行ずること真である、他人の教えでなきを完全に認識せられたし。
もちろんこういった態度は世のいわゆる宗教家とは一線を画し、時には誤解を生むこともあったでしょう、時には露骨にその活動を妨害されることもあったでしょう。道祖はある時、周りの方に対して、「会長(道祖ご自身のこと)はね、あらゆる宗教家とたたかって、刀の刃渡りをしてきたんだよ」と、実に感慨深げにおっしゃられたことがあると言います。
私自身、決して道祖の道行きにならったわけではありませんが、やはり信仰の原点、あらゆる既成の宗教の枠を取り払い、真行の道に生きようと志した結果、この「かむながらのみち」という教団を創るに到った経緯は、先の五月の例大祭で皆様にお示しした文章の通りです。
だからこそ、道祖がここで「自想」「真行」とおっしゃられた、そのお言葉にかけている想いがひしひしと伝わってくるのです。
もちろんこの「自想」という言葉は、かなり誤解を生みやすい言葉です。ややもすると、「自分で判断すればいい」「自分勝手」という意味に履き違えられかねません。
そうではなく、この自想こそが最も厳しい道であり、全ては自己が源であるという堅い信念なくしては決して体得されない境地であることを、私たちはよく肝に銘じておく必要があるでしょう。
他人や環境、さらに神仏、ご先祖様を素直に信じて仰ぐ心は尊いものです。しかし、それが「あの人がこう言ったから私は今こうなんだ」「こういう環境に生れたから仕方ないんだ」「こんなご先祖様がいたから、自分はこんなふうにしかなれないんだ」、挙げ句は「神様がこう言うのだから「道祖はこんなふうにおっしゃっていたから」と、神仏あるいは師を今の現状に対する安易な自己弁護に用いることほど、不敬で傲慢な態度はありません。
何よりそこには、活きた宗教の生命がありません。
だからこそ道祖は、あえて「自想」「真行」というお言葉を使い、全ては自己が源であると、常に常に強調されていたのです。
生きて成仏の出来ない人間に、死して成仏の出来よう筈はない。
大日如来を拝むならば、大日如来になるべきです。なりたいために拝む如来で、なりたくなさに拝む如来ならば、拝む姿は虚栄である、お体裁である、仮面であります。
私がよく引かせていただく道祖のこのお言葉の真意を、あらためてどうか皆様も深くかみしめていただきたいのです。
九月はお彼岸の月であり、夏のお盆に続いて見えない世界との交流、特にお墓やお仏壇の前で手を合わせる機会も多くあることでしょう。
しかしその儀式として整った中にも、常に自身の心を神仏に近づけるよすがとして捉え返すところに、宗教の真実味があるのです。
お経本来位牌の前で、物々しくなされた説法ではない。その念仏は死者へのお供えの贈り物だけではない。限りなく眼醒め、限りなく生き行く無限の生命を、開顕したものが経典であり、醒めて悔いなき魂の叫びが念仏であります。
道祖は常に形式のみに陥ってしまった宗教を、「伽藍信仰になるな」という厳しいお言葉で誡められました。しかしそれは他山の石として、常に自戒の言葉として私たちも真摯に受け止め続けなければいけないお言葉なのです。
信仰の原点は生命そのものです。そこに生命からあふれる歓び、楽しみ、そして何より人の心に寄り添う思いやりがなければ、それは信仰ではなく単なるセレモニーです。
私はよく、信仰を持つとどうなるのか、問われた際に次のようにお答えすることがあります。
「信仰を持つと言っても、何もそれで自分が偉くなったり、賢くなったり、ましてや他人様から崇められるようになる、というわけではありません。むしろ、他人の気持ちがよく分かり、やさしくて、気働きのできる人になれるんですよ」。
日々の祈りの中で、真剣に神仏、ご先祖様と向き合い、その御心を身に受けて、今日この一日を生かさせていただこうと励むことによって、私たち信仰者は、周りの人たちと穏やかに、慈しみ合い、そして真の生き甲斐を感じつつ、この世で楽しく朗らかに生き行くことがかなうのです。
そのような在り方が「自想」です。
そのような心を自己に、そしてご縁ある周りの方々と共に育んでいくために、このお彼岸という時節もそうです、さらにいよいよ来月の開催と迫ってまいりました、私ども立教二十周年を祝う会もそうです。そういった時々折々の祭事を通して、私たちは、私たち自身を高めていくのです。
私が小学校五年生の時、初めてこのみ教えと出会い、そこでふれた先生方の人格の温かさ、高潔さは、私自身をこの道へと導いてくれた原点です。
そのような人と人とのふれ合いこそが、信仰を根幹に据えた人生の醍醐味です。お互いの成長を歓び合い、時に励まし、時に叱咤し、そしていつも神仏、ご先祖様が見守って下さっていることを胸に、誇りと確信をもって日々を歩み行けることが、真行に生きる私たちの人生そのものなのです。
信仰の原点に立ち返りましょう。
私たちがこの世に生み為された真の意味、意義を悟り、一分一秒たりとも無駄にせず、この世でできることを精一杯、果たし続けて参りましょう。
先にもお伝えした通り、来月には私どものみ教えが成人を迎える、その祝いを共にする式典がございます。また、全国会場における布教を目的とした様々な催し事が、この年末にかけて各地で行なわれることとなっております。
その全ては自想、すなわち自己の成長と他者への伝道、この道を歩む自身の成長と、そしてさらに同じ道を歩む人たちをこの世の中で一杯にするための機会です。
かむながらのみちとは、神と共に歩む道であり、同時に自己が神になるための道でもあります。お互い様に、この人生でいただいた命を全力で燃やし尽くすために、日々の祈りと精進を重ねて参りましょう。
私が亡き会長と共に、この世に生み出した教団が、今二十歳を迎え、大きく世の中にはばたこうとしております。これからは皆様お一人お一人が源であり、主人公です。
この道がさらに大きく、世の中の全ての人の拠り所となれるよう、それぞれに手を取り合って参りましょう。