今号より私、北川大成が教主の後を受け、皆様とかむながらのみちのみ教えについて学びを深める機会を頂戴することとなりました。
思えば本誌も発行から十九年目を迎えました。きっかけは毎月会合で配付していたプリント類の代行でしたが、今では月々の勉強資料をはじめ、本部や各会場、青年部の現況報告や、様々な方からご寄稿を頂戴するなど、多くの方々とみ教えのご縁を繋ぐ大切な手立てとなっております。特にこのコロナ禍では、本誌が会との唯一の繋がりだという方も少なからずいらっしゃると伺っております。
教主はこの「みさとし」を通して、あらゆる角度からみ教えの真髄を説いてこられました。そのことを思うと、あらためて我が身に与えられた責務の重さが実感され、身の引き締まる思いです。還暦を過ぎたとはいえ、信仰の世界では未だ若輩者ではありますが、精一杯務めて参りたいと存じます。どうぞ宜しくお願い申し上げます。
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さて、先の五月二十二日の北海道を皮切りに、全国布教イベントがスタートしました。これまで北海道はほぼ毎年講演会を開催しておりましたが、このコロナ禍によりおよそ三年振りの開催、永田智義・道南会場主、舛岡真由美・道東会場主をはじめ北海道会員の皆様の思いはいかばかりだったかと、それだけでも胸に迫るものがこみ上げて参ります。
その思いを一瞬で昇華したのが、北海道和光太鼓の迫力ある演奏、その第一声でした。永田彩也香・北海道和光太鼓隊長のかけ声と共に、「ドーン」と力強い、そしてまさに「和」の象徴でもあるかのような、息の合った最初の音が札幌市街に響きわたりました。そこから和太鼓の激しいリズム、隊員の気合いと笑顔、そして周りの観客のみずのえのとら心の震えが一体となり、まさに本年の干支である「壬寅」を表わす「新しき船出」にぴったりの幕開けとなり、ただただ感動の一言でした。
その太鼓の演奏に勢いづけられ、講演会は大成功。その後の個人指導やワンポイントアドバイスにも多くの方が参加され、まさに全国会員の思いが結実した一日であったと申せましょう。この困難な状況下、このような尊い機会を創り出した会場主や実行委員の方をはじめ、会員お一人お一人の努力と熱意に深い敬意を表する次第です。
と同時に、このことで一つ、私が思い出したことがあります。それは教主の師であり、私の師でもある故岸田英山(きしだえいざん)先生のことでした。
先生は道祖解脱金剛尊者の数少ない高弟のお一人として、尊者のご生存中から布教のため全国を回っておられましたが、昭和二十三年道祖御遷化の後、故あってアメリカへと布教の旅に出られました。
今と違い当時は敗戦下、外国へ行くのも膨大な手続きとお金が必要でした。ただアメリカは宗教者に対して寛容な国であり、比較的早く出国の許可が下りたそうです。もちろんジャンボジェットで空の旅などまだ夢物語であり、当時は船による旅。出航場所は横浜大さん橋埠頭。そこは私どもかむながらのみちが、奇しくも十周年記念式典を挙行した、まさにその場所に当たります。
昭和二十五年六月二十八日、その日は朝から小雨が降り続き、見送りに親しい会員や友人が三々五々来てくださったものの、話ははずまなかったといいます。それもそのはず。当時はいったん渡米すれば、いつまた帰って来られるかわからない状況。それでも英山先生は心を奮い立たせ、船の中で次のような詩をノートに書き付けたそうです。
渡米大洋上にて
幾度かの招請遂に意を決す
単身渡米して布教に就かんと
時正に得たり一身の転機
天命奉じ行く異邦の空
恩師の遺訓胸奥に存り
伏して請願す神仏の加護を
五色の瑞雲米州に靉(はためか)せ
以て招来せん人類の幸福
私はこの詩の最後にある「人類の幸福」というところに、否応無しの感動を禁じ得ませんでした。まさに今の私どもこそが、この「人類の幸福」のビジョンを描き、「恩師の遺訓」を胸に出航したばかりの「布教」者ではないでしょうか。
英山先生からは、次のような話も伺ったことがあります。このアメリカ布教の原点は先の大東亜戦争下、アメリカが日本人を捕虜収容所に隔離した際、その収容所に収監された清田先生という方が、お一人でひたすら布教に励まれたことが始まりであると。
戦時下の捕虜収容所については、多くの方が記録や文学として残しており、その悲惨で理不尽な状況は私どもの想像を絶するものがあると拝察致します。そのような辛く苦しい中においても、否そのような中だからこそ、人々の救済に奔走された清田先生、そしてその思いを受け継がれた岸田英山先生という先人方の情熱と行動があり、今の私どもがあるのです。
そのように思いを馳せた時、確かに今の私どもも苦労や悲しみを背負って生きざるをえない状況下ではあります。が、だから「できない」「やれない」ではなく、今だからこそ「やる」という強い信念と希望、何よりも「覚悟」がこの私の胸の中にも沸々と湧いて来るのです。
今、ロシアによるウクライナ侵攻は、多くの人の予想に反し長期化の様相を呈しています(六月十五日現在)。勃発当初は悲惨なニュースに誰もが憤慨し、戦争反対の声があらゆる場面で叫ばれていましたが、いつしか日常の中に埋没してしまったような感があります。
「魔」が入るのは、実にこのような時です。一瞬の気の緩みが「魔」を呼び込み、取り返しのつかない事態を招くことは多くの方が体験していることと思います。
今、私どもの会では「太古以来敵味方生霊想念怨念無縁之霊」について、五月の大祭時より全国会員が一丸となって祈りを共有しております。見えぬ世界を治めてこそ、見える世界は治まるという絶対的真理に則り、各家庭・会場における祈りは深まるばかりです。そしてそれは、必ずしも対岸の火事ではなく、必ずや自身の「敵味方生霊想念怨念」について思いを馳せる機会ともなっているはずです。
おそらく多くの方が、この時に自身の生活の中で様々な争い、葛藤、感情の行き違い等の否定的場面に遭い、天に各々の生き方を「問いただされて」いるはずです。祈りとは斯くの如しです。だからこそ「自分の中の怨念」――祖先代々自身へ連綿と続く敵味方の因縁、カルマ解消のため、取り組むべき時は今なのです。
祭りとは、日常の「魔」を祓い清め、神仏との「間」を釣り合わせるもの――それが祭りです。そして皆様が日々、ご自身の家庭・会社で毎朝夕お勤めされている祈りこそが、すなわち「祭り」なのです。
今混迷を極める世界の渦中で起きている出来事を、他人事ではなく我が身に引き受けて祈り、何より自身の生活行の中で解消し、怨親平等の祈りを以て人類全体のカルマ解消の一助となる。そのような姿勢こそが真実の信仰者であり、かむながらのみち会員の生き様なのです。
人はせめて世の変革のような非常重大の時機に魂の覚醒を得ねば遂にその機を永久に逸するに至るであろう。
道祖がお遺しになられ、そして教主が事あるごとに口にされるこのお言葉を、今この時に再度、皆様にお伝えさせていただきます。
かむながらのみちとは、神仏と共にある道です。神仏の意を一身に受け、自身が源であるという強い信念の者が集まり、手を取り合い進む道です。
日々の「祭り」を真剣に勤めて参りましょう。世界の平和を祈念致しましょう。そして自身の日々のあり方の向上を真剣に努めて参りましょう。
人類の幸福は、私たちの生活にこそあるのです。