教主からのメッセージ

情熱的な自分創り

二月も節分・立春を過ぎれば、もう暦の上では春を迎えます。まだまだ寒さは続きますが、そのような中にも木々や草花は着実に新たな芽吹きへの準備を進めています。大自然の摂理には、いつも学ばされることばかりです。

さて、年頭からお伝えしておりますように、かむながらのみちの今年のテーマは、次の通りです。

新時代を歩む 祈りと学びで四聖を昇華
 ~未来を拓く、情熱的な自分創り、
          人創り、国創り~

何かに情熱の火を燃やし続けている人は、やはり魅力的です。その周りには必ず人が集まってきます。逆に、どんなにきれいな言葉を並べ立てても、そこに「情熱」が感じられなければ、人の心は決して動かないものです。

「情熱的な自分」――そのようなあり方で、常にいたいものです。

解脱の教えは死物ではない。形式ではない。溌剌若鮎の如く、清新羨やむばかりに活き活きとしている。
解脱は絶対であるから、信じて疑わず実行して、常に心を浄め、自己人格の昂揚を忘れるな。
言うことに力のないのは、心に根がないからです。心に根があったらテキパキしている。ソバの延びたのと人間の熱のないのは頼りない。

では、この「情熱的な自分」を、どうやって「創る」ことができるのでしょうか。そのポイントは「信」であると、私は思うのです。

道祖解脱金剛尊者の生前のお話として、次のようなものがございます。

昭和二十年八月十四日、すなわち先の大戦が終戦となる前日、ある名古屋の会員が道祖がおられる埼玉県の北本へと向かいました。

ご存じのように当時の輸送事情は厳しく、乗車切符を購入するのに二日も三日も並ぶのが当たり前という状況でしたが、その方はどうしても道祖にお目にかかりたいと思い、幸い名古屋から北本への片道切符だけ手に入ったので、矢も楯もたまらず電車に飛び乗ったとのことです。

しかし、途中で何度も空襲警報にあい、その都度停車。一晩を車中で明かし、次の日も東京と埼玉の境である荒川を渡ったところで正午を迎え、昭和天皇陛下の玉音放送を駅で聞き、そのまま北本へと向かいました。

そしてようやく道祖とお目にかかることができたのですが、道祖は平素と全く変わらないご様子で、集まった人たちににっこりと笑みを浮かべながら、これからの時局への処し方をお伝えされたそうです。

お話が一段落すると、その名古屋から来られた方に道祖が、「君は名古屋へいつ帰る。切符は持っているのか」と尋ねられました。

その方は「いえ、切符は持っておりません。名古屋を発つ時、ただ会長先生(道祖のご生前の尊称)のもとへ行くことさえできればと、一枚あった切符をわけてもらって参りました」と答えました。すると道祖は、うなずきながら、傍にいた方に向かって、この方と一緒に行って駅長さんから切符をもらってあげなさいとおっしゃいました。

早速、その方は駅へと向かったのですが、駅長さんは「今はどの駅でも割り当てが決まっていて、今時分に来てもねえ……」と取り合ってくれません。しかし、念のためにということで調べていただくと、たった一枚売れ残っていた切符があったというのです。駅長さんはとても驚き、不思議がっていました。

その方は、いったん道祖のもとへ帰り、一部始終をご報告申し上げると、道祖はにっこり笑い、「それは結構だった」と一言おっしゃった上で、その場にいた方々に次のようなお言葉でおさとしされたのです。

「皆さんは、家を出る時、もう帰ることばかり考えている。だから切符の引換券なんかもらって、二日も三日もいる。帰りのことはよい。この北本へ何が何でも行かせてもらいたいと、無条件で、真心をもって出てくれば、遠い名古屋だってその日に帰らせてもらえるのだ。よく悟ることだね」。

その場にいた方々はもちろん、その方も大いに感じるところがあり、それからは、たとえ市内に出かける時でも、ご神前に向かい「ただ今から、どこそこへ出させていただきます」、そして帰った際は「ただ今、帰らせていただきました。無事に帰らせていただきましてありがとうございます」と、神々様に御礼を申し上げることを欠かさなくなったということです――

◆ ◆ ◆

入会してまだ間もない方には、あまり耳になじんでいない言葉だと思いますが、私どもはよく「お運び」という言い方をします。

何か一心不乱に打ち込む、それも人様のお役に立つように、あるいは神仏のご用にと無我夢中で取り組んでいると、常識では考えられないような幸運に恵まれることがある。何か物事が怖いくらいに進んでいき、その流れに乗っていくと、普段の自分では決してできないようなことができてしまう。

そういった体験をいただいた時、私どもはよく「お運びだね」「運びがついた」などと言い、あらためて見えない世界からのご加護に感謝致します。

世にいう奇跡とかご利益といったものも、煎(せん)じ詰めればこの「お運びがついた」ことに他ならないのですが、勘違いしてはならないのが、神仏に祈れば、何か超常的な力が授かって、何でも願いが叶う、というようなことでは決してないのです。

奇跡も、ご利益も、この「お運び」についても、大自然の摂理から言えば、むしろ当たり前のことです。しかし、普段私たちの目は自我や欲望で曇らされていますから、その正しい道が見えないだけなのです。

ですが、神仏に祈りを捧げ、我を忘れるくらい目の前のことに集中し、ただひたすら打ち込んでいると、曇らされていた目もしっかり開き、正しい道筋が見え、その通りに進んでいくと、傍から見て「奇跡だ」「不思議だ」「信じられない」といった結果をいただけるのです。しかしその当人、そしてもちろん大自然の摂理からすれば、それは当たり前のことをしているに過ぎないのです。

「ついている」とは、文字通り「憑(つ)いている」ということで、ものに憑かれたような勢い、まさに神がかりの状態にあることを言いますが、それは霊が憑依(ひょうい)するというような狭い意味で捉えるのではなく、神仏やご先祖様があなたの傍に付き、大いなるご助力をいただけていると解するべきです。

そのようなお力をいただくためには、ご縁ある神仏を尊び、敬い、礼節を欠かさず、結果をすべて委ね、託し、信じ切り、その上で、この世で精一杯の努力をし続ける。その姿勢に神仏が感応し、奇跡とも言えるようなお運びをいただけるのです。

情熱とは、そのような見えない世界の神理に身も心も任せ切った状態で、目の前のことに一心不乱に努力している中から生まれるものです。

ですから、情熱とは決して「無謀」のことではありません。

自我充実のために、目先の利益だけを追い求めていても、それは情熱とは言いません。そのような人の周りに、決して人は集まってきません。「自分はこんなに頑張っているのに、なぜ……」という思いを抱きがちな人は、そもそも自分が何のために「頑張っている」のかを再検討、再三検討されたほうがよいのではないでしょうか。

もちろん、人は往々にして間違います。人様のため、世の中のためを思って始めたはずが、いつのまにか自我充実の道に踏み込んでいた、ということもよくあることです。ですから、私たちは人生を「学ぶ」必要があるわけです。

私どもの会でいえば、会合の勉強や慈敬学院などで、人としての正しき道を学び、さらに個人的なご指導、あるいは「みちの輪」といったプログラムで、今の自分はみ教えから外れていないか、人としての道を踏み誤っていないかどうか、常に確かめつつ進んでいく絶対的な必要があるのです。

「祈り」と「学び」、このどちらが欠けても、人生は決してうまくいきません。ましてや「情熱的な自分創り、人創り、国創り」は、祈りと学びがあってこそ実現が叶うのです。

もう一つ、この「お運び」について、とても大切なことをお伝えさせていただきます。

皆様は、何か肯定的なこと、良かったこと、嬉しかったこと、身に余る幸運をいただいた時のみ「お運び」と思っていらっしゃるようですが、それはとんでもない間違いです。

身に余る不幸、決して受け止めきれない否定的な出来事、つまずき、苦しみ、悲しみといった出来事も、神仏の目から見れば同じ「お運び」なのです。

私たちが、この世に生を受けた最大の目的は、成長することです。

一人一人の霊魂が成長し、あの世へと還っていくことができるよう、修行のためにこの世に命をいただいているわけです。

修行は、楽なものでしょうか? いえ、自身を鍛えるには、厳しさはつきものです。むしろ、辛くなければ修行になりません。人はつい安楽なほうへ、平穏無事が何よりと、楽なほうへ楽なほうへとおもむきがちですが、そこには決して人としての成長はないと思ってください。

もちろん、平和な状態を目指すなという意味ではありません。何か否定的な事が起きたとき、どのような心構えでいるか、ということです。誤解を恐れず申し上げれば、一生懸命に祈り、一生懸命に生きているからこそ、さらなる成長の糧となる、今の苦しみや悲しみ、辛い出来事をいただけている、ということなのです。

そのように真実の目で今の状況を見つめ直し、祈りと共に取り組んでいくと、いつのまにかその否定的な出来事も解決へと向かっていくものです。むしろ、目の前のことに一喜一憂し、どうにかしなければと、もがけばもがくほど、真の解決からはほど遠くなることを、この信仰の道を選ばれた皆様には、しっかりと胸に刻み込んでいただきたいのです。

解脱は病い直しの道に非ず、心直しの道なり。

道祖のこのお言葉を、特にこの道に入られたばかりの方へお届けしたいと存じます。

人は、決して強くありません。今の目の前の出来事が、自分には耐えられなく、もうダメだと自暴自棄になることも少なくありません。ですが、神仏は決して、あなたを潰すために今の出来事をお与えくださっているのではありません。きちんと、今のあなたがギリギリ耐えられるくらいの、絶対に対処できる範囲の出来事を「お運び」くださっています。

それを、信じることです。

信じることから、真の情熱は生まれます。どんなに否定的な出来事に出会っても、これをみずからの成長の糧と捉え、日々笑顔を絶やさず、一心不乱に努力し続けている人せたち――そのような人のところにこそ、人は集まります。その人にふれたいと思います。その人が大切にしているものを、知りたいと思います。

そのような「お導き」ができるよう、かむながらのみちの会員として精一杯、み教えに生きていただきたいのです。

これから本格的な春を迎えます。大自然の摂理に沿って、温かな光をこの世に分かち合って参りましょう。

かむながらのみちとは、親先祖を大切に、夫婦円満、親子仲良く、いただいた天職を全うし、人様のために精一杯尽くしていくこと。特別なことではありません。むしろ、人として当たり前の生き方こそが、このかむながらのみちなのです。

どんなささやかなことでも、それが神仏からいただいた一人一人の使命です。

新しき年の初めに、どうか再度、自身がいただいた命の理由を見つめ直し、情熱的な自分創り、人創り、国創りに励んで参りましょう。

-教主からのメッセージ

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